殉愛・アンビバレンス【もう一つの二重人格三重唱】
十一日から十二日にかけて降った雪の残る道。
【舞台などでは演出上、討ち入りの日に雪が降ったとされています】
【南部坂雪の別れもなかったようです】
吉三郎は吉良邸へと急いでいた。
江戸が騒然となっていたからだった。
討ち入り後何処へ向かうのか知らない吉三郎は、浅野家の墓所である高輪の泉岳寺に向かっていた。
結局その近くの通りで、討ち入り後の寺坂吉右衛門と出会えたのだった。
寺坂吉右衛門は浅野内家の直接の家臣ではなく、吉田忠左衛門の家に仕えていた使用人だったのだ。
そのために、墓所へ詣でるのをはばかったのだった。
仇討ちの無事終了したことを知った吉三郎は、寺坂吉右衛門と喜びの涙に暮れた。
二人はそれで別れた。
吉三郎は独りきりになった吉右衛門に哀れを感じていた。
中川に戻った吉三郎は仲間に、討ち入りが成功した旨の報告をした。
この時皆狂気乱舞したようだ。
無理はなかった。
中川の赤穂浪士一団は、仇討ちの失敗対策を考えあぐねていたのだ。
吉三郎はこの後中川から江戸へと往復し、討ち入りから五十日後の元禄十六年二月四日に切腹の決まったことを報告したのだった。
又皆狂気乱舞した。
切腹と言うのは、武士として認められと言うこだったのだ。
正式の敵討ちだと認められた訳ではない。
でも赤穂の浪人ではなく、武士として死ぬことができるのだ。
皆涙を流しながら語り合い、追々することを決めたのだった。
そしてその日。
中川にいた赤穂浪士の一団と共に切腹して果てたのだった。
脳裏に、寺坂吉右衛門の哀れな姿を思い浮かべる。
同じ使用人。
でも自分は仲間として認められた。
そのことを誇りに感じつつ、吉三郎は自刃に及んだのだった。
今では二月四日には祭事があるだけで、旧暦に近い四月一日から三十日まで義士祭が高輪の泉岳寺で行われているようだ。
【舞台などでは演出上、討ち入りの日に雪が降ったとされています】
【南部坂雪の別れもなかったようです】
吉三郎は吉良邸へと急いでいた。
江戸が騒然となっていたからだった。
討ち入り後何処へ向かうのか知らない吉三郎は、浅野家の墓所である高輪の泉岳寺に向かっていた。
結局その近くの通りで、討ち入り後の寺坂吉右衛門と出会えたのだった。
寺坂吉右衛門は浅野内家の直接の家臣ではなく、吉田忠左衛門の家に仕えていた使用人だったのだ。
そのために、墓所へ詣でるのをはばかったのだった。
仇討ちの無事終了したことを知った吉三郎は、寺坂吉右衛門と喜びの涙に暮れた。
二人はそれで別れた。
吉三郎は独りきりになった吉右衛門に哀れを感じていた。
中川に戻った吉三郎は仲間に、討ち入りが成功した旨の報告をした。
この時皆狂気乱舞したようだ。
無理はなかった。
中川の赤穂浪士一団は、仇討ちの失敗対策を考えあぐねていたのだ。
吉三郎はこの後中川から江戸へと往復し、討ち入りから五十日後の元禄十六年二月四日に切腹の決まったことを報告したのだった。
又皆狂気乱舞した。
切腹と言うのは、武士として認められと言うこだったのだ。
正式の敵討ちだと認められた訳ではない。
でも赤穂の浪人ではなく、武士として死ぬことができるのだ。
皆涙を流しながら語り合い、追々することを決めたのだった。
そしてその日。
中川にいた赤穂浪士の一団と共に切腹して果てたのだった。
脳裏に、寺坂吉右衛門の哀れな姿を思い浮かべる。
同じ使用人。
でも自分は仲間として認められた。
そのことを誇りに感じつつ、吉三郎は自刃に及んだのだった。
今では二月四日には祭事があるだけで、旧暦に近い四月一日から三十日まで義士祭が高輪の泉岳寺で行われているようだ。