殉愛・アンビバレンス【もう一つの二重人格三重唱】
 愛された記憶のない翼は愛し方も知らなかった。

御花畑駅の改札口で待っていた翼。
陽子は当然のように手に触れた。

その時稲妻が走ったかと思われる程衝撃を受けたらしく、翼は震えていた。

陽子が笑う度、翼の表情が変わる。

愛しくて愛しくてたまらなくなる。

こんな健気な青年を何故家族はないがしろにするのだろうか。

西武秩父駅で陽子が泣いたのは、翼の過去を思いはかったからだった。

陽子の荷物を持とうとしてくれた優しい翼。

本当は頼みたい陽子。
でも、見栄を張る。

二つ年上のお姉さんとしての意地だったかもしれないけど。




 「巡りきてその名を聞けば明智寺心の月はくもざるらん」

国道に繋がる道をお遍路達がご詠歌を唱えながら歩いて来る。

白装束に“同行二人”と記してある。

翼と陽子に軽く会釈を交わしながら、六角のお堂の中に入って手を合わせる。

みくじ結んだ一人が、境内にある井戸で手を洗い出した。

其処にあることにも気付かなかった二人は見つめ合い笑った。


(――なんで気が付かなかったのだろう?)
お互い、それをアイコンタクトした。


その時、案内人らしい人が寺の言い伝えなどを語り出す。

翼と陽子は遠巻きに仲間に入って聞き耳を立てた。


「昔この地に、とても親孝行の息子が住んでいたとのことです」

案内人は小さく咳払いをして、又しゃべり出した。


「その子の母親は目が見えなかったので、このお寺に一生懸命に願を掛けたそうです」




 陽子は翼の様子が気になり、そっと視線を送った。
其処には、今にも泣き出しそうな顔をしながら聞いている翼の姿があった。


例え翼がどんなに親孝行をしたくても、孝行をさせてくれる親がいない。
それがどんなに切ないものか。

陽子は翼の心の奥の悲鳴を聞いたように感じていた。


翼の祖父の勝から聞いていた。

母親に愛されていないことや、話題にものぼらないことなどを。

でもその翼が誰よりも母親である薫を愛していることは明々白々なのだと。

自分達に気を使って、その事実を隠していること。

何故、堀内家の人々がその事実を陽子き話したのかは判らない。

でもきっと翼を思ってしたことだ。
陽子はそう感じていた。




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