Doctor or Pianist
帰国子女

双生児

「離れ離れに暮らすのだけは絶対に嫌だ」
幼いころから家族と離れ、ひとりで音楽学校に通っていた父はそう言った。
遠く離れた東の果ての国であっても、行くのなら家族みんなで行こうと。
そうして僕らも言葉も知らない国で生涯暮らす覚悟ができた。



どうして僕らは二人で生まれてきたのか、ちゃんと知ってる。
二人でいればさみしくないから。父さま母さまがどれだけ忙しくても大丈夫。
いつでも一緒にいる、もうひとりの僕。
離れることなんてない、離れたくない。
一緒にいるあまりにお互いがお互いの自分の一部になり果ててしまっている。
今日も抱き合って眠る。
しかし、いつまでこうしていられるのだろうか。



「違う色嫌だ、同じがいい!」
服を選ぶ母に二人同時に話しかける。
「ほんとに仲がいいのね、普通は違うのがいいって言いそうなものだけど」
結局、いわゆる「お揃い」の衣類を買うことはほとんどなく、どっちの服と決めることなく着まわしている。
お揃いを着ると周囲から見分けがつかなくなるからだ。
両親は名前を呼んでみればわかる、と、見分けがつかないことをあまり気にしていなかった。
でも、自分たちがいちばん、区別をつけずにいた。
それはもうどちらの名で呼ばれてもかまわないどころか……。
『どちらがどちらか』なんて、『まったく無くなって』いた。



僕らは西ベルリンで、祖母が日本人だったというドイツ人の父と、父親が日本人、母親がアメリカ人のハーフの母の駆け落ちのもとに生まれた双生児だ。
ちょうどベルリンの壁がなくなった二か月前…1989年9月6日に生まれた。
父、ヒカル(光)・エンゲルは音楽家で、六歳からウィーンで一人で音楽学校に通って育った。
幼いころからピアノ演奏と少年合唱団やウィーンフィルで神童と言われ、成長する頃には作曲、指揮にまで手を広げ、『クサヴァ・エンゲル』の名で世界を舞台に活躍している著名人だ。
母、若桜雪菜(わかさ ゆきな)は、高等学校まで日本で育ち、大学はアメリカのハーバード大学へ入学し、精神医学を修めた後、日本へは戻らずウィーン大学で研究をしていた。
父がウィーンで講演をしたときに母が聴きに来ていて、偶然同じホテルをとっていて、そこのバーで知り合ったそうだ。
母の東洋人とも欧米人ともつかない容姿に、小柄ではないのにスレンダーなスタイルや、どことなく和風の上品な仕草、15分接すればわかる真面目さと豊かな知性に、たまたまカウンター席の隣に座った父は惚れ込んだらしい。
必死に口説き落としたそうだ。
父・ヒカルの家族はベルリンに住んでいて、兄が一人、妹が一人、両親は健在だった。
ヒカルの方の祖父はドイツ人と日本人のハーフだから東洋人らしい顔だちをしていて、若いころに苦い思いをしたことがあったらしい。
日本人で無宗教の母・雪菜にあまりいい印象は持たなかったが、個人の自由だと二人のことに反対はしなかったそうだ。
一方、母・雪菜の日本の家といえば、実はもと名家で、雪菜の結婚相手を勝手に用意して、一刻も早く娘が帰国するのを待っていた。
もちろん、いくら世界的に有名な音楽家とはいえ、高学歴でもない芸術家のなによりも再びの外国人との結婚を許すはずがなく、 ヒカルの日本公演を利用して挨拶に行っては見たものの、全く取り合ってもらえず、交渉するたびに話はこじれにこじれたらしい。
時間がたつにつれて、母はもう日本には帰らない覚悟を決めてふたりは結婚した。
駆け落ち国際結婚だ。
雪菜が研究を修了し、やがて僕らを出産すると、落ち着くのを待って一家は西ベルリンに居を移した。
双生児である僕らを多忙な仕事を持つ両親が育てるのは不可能に近いことではあったが、父が豊かすぎる財産を稼ぐのでベビーシッターを雇えたこと、そしてなにより手のかからない子どもたちであったことが幸いしていた。
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