君に愛の歌を、僕に自虐の歌詞を
「“あじさい通り”知ってる?」
「スピッツの? 知ってるよ」
「歌えたら歌って」
ギターを弾き始めた僕の横顔を、彼女が見ているのが解る。 気付いているし見詰め返したいが、緊張してそれは出来そうになかった。
やがて歌い始めた草野さんの肩が、僕の肩に触れた。 彼女の方から、椅子を動かして僕に寄りかかってきたのだ。 無表情でギターを弾き続けようとしたが、気付いたら僕の口元は緩んでいた。
「君は暖かいねぇ。 眠くなってきた」
「寝るなよ」
「寝ないよ、もうすぐ8時だもの」
一通り歌い終えると、草野さんは大きな欠伸をした。
そして椅子から立ち上がり、外していたコートのボタンを嵌め直し、ベルトを締め直した。 そして
「行こうよーお腹減ったよー」
と、小さな子供のように足踏みしながら言う彼女が、愛おしくて堪らなかった。 16歳の頃から憧れ続けていた女の子が、僕にこんな仕草を見せるなんて、夢にも思わなかった。
人前で滅多に笑顔を見せない、まるで人形みたいだった彼女が、今はずっと人間らしくなり、穏やかに笑っている。
きっと学校を辞めて今に至るまでに、何か彼女を変える何かがあったんだろう。
彼氏でも作ったのか? ――――いや、ついこの間まで引きこもりだったらしいし、それは無いだろう。
じゃあ何があったんだろう?
それともただ単に、時の流れが草野さんを変えただけだろうか?
「早くしろよっ」
「痛っ! ――何、今の早技!」
呆けて座っていた僕の髪の毛を一本、かなり素早く引っ張り抜いて、草野さんは痛がる僕を見てニコニコしていた。 杏型の目が眠っている猫のように細くなる。 血液の色が濃く映る唇や白い頬を見ていると、クラクラしそうだった。
彼女にキスしたい。
父親に「知り合いと出掛けてくる」と言うと、「あの美人な子か? 恋人か? それともまだモノにしてないのか? しっかりしろお前は父さんの息子だろ」と励まされて手渡されたのは、見るからに避妊する時に使うビニール製のアレだった。 これがギャグじゃなくて本気の目なのが、何とも複雑な心境にさせられる。
「おまたせ」
父親に渡されたアレを何となくジーンズの尻のポケットに突っ込み、そのままコートを着て財布を持って、店から商店街の大通りに出た。 外で待っていた草野さんに声を掛けると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「私がよく行く所で良い? 同じ商店街で近いし」
「いいよ」
二人並んで、金曜日の人通りが多めな商店街を歩いていく。
すれ違う人々が、こちらを見ている。 ――――とくに男が。
僕と草野さん、どちらを見ているのかはすぐに解る。 草野さんは僕と同い年とは思えない程顔つきや雰囲気が大人っぽく、不思議な魅力がある。 学生の時も、男子の中では密かな人気者だった。
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