いつか、きみに、ホットケーキ
16. 理由
「大沢さんには大沢さんの然るべき理由があって、湖山さんには言いたくなかった。だからあなたには言わなかった。」
「どうしてだろうな。」
「もし湖山さんが結婚することになったら、大沢さんに言う?」
「言うと思う。」
「言えない理由があるとしたら、どんな理由?」
「さあ・・・見当もつかないよ・・・。」
「人生において、すっごく大事な決断だよね、結婚って。」
「うん、そうだよな・・・。それを言いたくないって・・・。俺って大沢くんにとって何だったんだろうって思っちゃうんだよな。だから苛々する。」
食器の音、低い声で話すざわめき、時折聞こえる笑い声。噛み締めると甘い薬膳料理が胸のどこかに染み入るみたいだ。知らない間にこんなにも身体が疲れた、と言っていたんだろうかと思う。そして、そんな気持ちを察するように菅生さんは箸を置き、労わるように、そして彼に何かを問いかけるように言う。
「大事な人だから、寂しかったんだよね」
そうか・・・。
寂しかったんだ・・・。
自分だけが彼を大事に思っていたみたいで。
自分の何もかもを彼にさらけ出しているのに、大沢は自分に対してそうではなかった、ということが。
ゴマ豆腐にのったちょびっとの山葵が優しく鼻につんとした。少し泣きたいような気がするけれど、辛くて涙が出るというほどの辛さではない優しい山葵が今の湖山には残酷に思える。
菅生さんは箸を手に取り、再び何かを噛み締め始める。静かに重々しい。湖山に何かを言おうとして、言葉を選び、噛み締めて、噛み砕いて、そして飲み込む。言えない何かを瞳に宿したまま、菅生さんは静かに食事を続けている。
テーブルの上のランプが揺れている。テーブルの下に置いたバスケットの中で、何気なくカバンに放り込んだ湖山の携帯電話が鳴っているのに、湖山は気がつかない。その電話は大事な人に大事な事を言えなかった理由を、呼び出すベルの音を数えながら探っている男が掛けているのだった。