真夜中に口笛が聞こえる
 金山静江がライターを投げた瞬間、信一郎は掴んだ何かを炎にぶつけた。
 ジュッと音がして、静江の足元に落ちる。

 石鹸だった。
 すぐ様静江が睨み付ける。包丁を構え直し、襲い掛る。

 信一郎は体を捻り、何とか脇腹の皮一枚で包丁を交す。そのまま片腕と顎を使い、腰から脇を抱え、静江を風呂の床に押さえ込む。

 もがく静江は、何度も何度も信一郎の肩から背中に包丁を突き立て、ザクザクと刺し続ける。血が迸りながらも、信一郎は手を伸ばす。

 ライターだ。
 静江のライターが落ちている。しかし、届かない。

「きゃあああ」

 二人もがく中、水脹れの左腕がヒトデのように裂けながら開き、吸い付くように静江の顔面に貼り付いた。

 それでも執拗に包丁を振るう静江。

 何とかライターに手が届いた信一郎は、首下まで引き寄せ、強く握る。


「お父さん」

 美佳の声がした。奥の部屋で、美咲と共に縛られているのだろう。

「行っちゃ駄目!」

 美咲の声だ。そして、予想に反し、美佳が姿を現した。

「美佳! こっちへ来ちゃいけない。それから、体の異常について、正直に越石先生に話すんだ。きっと、何とかしてくれる。諦めたら駄目だぞ!」

 美佳の目から大粒の涙が、ぽろぽろと落ちる。

「忘れるな。お前はお父さんとお母さんの、大切な、大切な宝物なんだからな!」


 そう叫ぶと、信一郎はライターをカチカチと押す。

「ひっ、ひい」

 静江の声だった。
 パチンとライターから火花が散る。一度フラッシュした後、重なり合った二人が、一気の炎に包まれる。

 美佳の悲鳴。逃れようとする静江。そして身を犠牲にし、押さえ付ける信一郎。交差した昆虫の足のように、関節の曲がった静江の手足がじたばたと動き、やがて、静止する。

 炎の中で顔に貼り付いた触手の隙間から、静江の瞳が、今にも飛び出しそうなほどに剥き出し、そしてとろけてゆく。

「お父さん……」

 美佳はまだ炎がくすぶる遺体の前で、枯れるほど泣いた。


第十ニ章

「守るべきもの」

完結

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