惚れられても応えられねーんだよ

 布団を持ってきてくれるって何時頃だろう。

夕方かな……、夕食の前だとしたら、また家で食事した方がいいかな。ということは、買い物行っとかないと。

 今日一日は病院の掃除をしながら、ずっとそのことを考えていた。

 掃除機をかけていても先生のワイシャツが目に浮かぶし、モップをかけていても声を思い出そうと無心になってしまう。

 ぞうきんを絞る自分の手を見ては、ハンドルを握っていた時の硬そうな手が一瞬蘇る。

 そういえば、車内はちょっと消毒っぽい匂いがしていたかな……今になって思い出そうとしても、思い出せないこともたくさんある。

 だけど、先生のことを考えているだけで満足した。

 顔の表情しか分からないが、いつも穏やかそうである。

 そういえば、年はいくつくらいだろう。

 25? そんな若くはないか……なら、30? にしては落ち着いている。ということは、35? にしては肌にハリがある……。それとも、医者なので肌の健康の秘訣でも知っているのか。

 年齢も分からないまま、あっという間に夕方になる。

 もしかしたら、昨日と同じ場所で偶然逢うかもしれない。

 いや、相手はこちらを探しに来てくれるかもしれない。

 そう思いながらようやく、病院の職員用玄関を抜けた。

「おーい、お疲れ様」

 聞き覚えのある声に、まさかと振り返った。

「あれっ!? 」

 今出入口から出て来たのに、そのそばに立っていた先生に私は全く気付かなかった。

「いつからいました!?」

「いつって聞かれると、10分くらい前だけど。そろそろ終わる頃かな、と思って」

 まさか、待ち伏せしてくれているなんて思いもせずに、笑顔が心の底から込み上げてしまう。

「布団、約束してたしね」
 言いながら先生は外へ一歩出た。

「あ、そうですね。私も気になっていました」

「もういい時間だし、今日は食事してから帰りましょうか」

「そうですね! 行きます!!」

「昨日言ってた居酒屋でいいですか?」

「はい! 外食なんて、ここで住み始めて初めてです」

「そんなことないでしょう? 一度したじゃないですか」

「え……」

 思い返す途中で先生は暴露する。

「カフェ」

「あ、すみません! そうでした」

 私は笑いながら、初日の出来事を思い返した。

「いけないなあ。そんなこと言われたら、男性は誰だって食事に誘わなきゃって思うじゃないですか」

「すみません、すみません」

 先生の冗談が伝わったので、私も笑いながら謝る。

助手席の扉を開けてくれたレクサスに昨日と同じく乗り込み、15分ほど走ると繁華街に着く。

 車を駐車場に停め、人通りが多い中、2人は並んで縫うようにしばらく歩き、大きくて新しそうな居酒屋に入った。

 2人は座敷に通され、靴を脱いで寛ぐ。個室ではないため、パーティションで区切られているだけだが、明るい良い雰囲気だった。

 すぐにそれぞれ食事を注文する。

「先生、私、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」

 料理が運ばれる前に私は切り出した。

「はい?」

 おしぼりで手を拭きながら、先生は返事をする。

「先生って、いつもどんな生活してるんですか?」

「どんな生活とはまた、抽象的な……」

 言いながらも、先生は宙を仰いで考え始める。

「朝は起きて仕事行ってるの分かります。じゃあ仕事が終わった夜は何してるんですか? テレビとか?」

「いやあんまり……、読書が多いかな……。誘われれば飲みに行くこともあるけど」

「へえー……」

「あんまり想像つきません?」

 先生は少し眉毛を下げて聞いた。

「はい。あんまり」

「じゃ、今度一緒に暮らしてみましょうか。それなら俺のことがよく分かるでしょう」

 え、と思ったのと同時に

「生一丁!」

という従業員の声と、生ビールと酎ハイがテーブルに置かれた。

 先生の顔を見た。

 いつも通りの普通の笑顔だ。

「んじゃ、乾杯」

 酔ってもないのにさらっと冗談を言うのはいつものことか、そういえば昨日も同じようなことを言っていたではないか。

 私は先生の掛け声に合わせて、少しグラスを寄せて鳴らした。

「いやー、うまい!」

 まるで悪意などなさそうな笑顔に、この人のさらっとしたセリフに何人も泣いてんだろうなあと思うと少しムッとする。

「先生、最後に彼女いたの、いつですか?」

「いないですよ、ずっと」

 相手が目を見て言ったので、私も逸らさなかった。

「嘘。じゃあ先生、いくつなんですか?」

「いくつに見えます?」

 まさかそう遠回しに言われると思っていなかったが、ここで間を空けたら負けだと思い、

「35」

と、即答した。

「ハズレ」 

 先生はジョッキを傾けながら、笑う。

「……38?」

「そんな老けて見えるかなあ」

「あ、もっと若いんですか」

「胸に刺さるね、その言葉」

「す、すみません……」

 先生は笑っているが、とりあえず謝っておく。

「じゃあ、33」

「正解」

 あ、簡単に認めるんだと少し拍子抜けになり、「お若いんですね」などのコメントをつけ忘れた。

「そうだったんですか……」

「老けて見られることが多いかなあ」

「やっぱり、職業柄ですかね……」

「関係あるかな、それ」

 先生は笑って首をかしげる。

「あ、で、先生! じゃあ30年近くも彼女がいなかったってことですか?」

「何か変?」

 真顔で言われた。

「……別に、変じゃないです」

 まさか、童貞なわけないよね……。

「医者は担当持つと病院に拘束される時間が長いからね。待たせるのも可愛そうだし、待たせたまま仕事に出ると、家が気になるから」

 …………。

 あまりにも真剣な考えに返す言葉が出ない。

「ね?」

 突然笑顔で、問いかけられる。

「そう……ですね……。そうかも。じゃあ、この先もずっと彼女も作らないし結婚もしないんですか?」

 飲んでいるからこそできる会話だな、と自覚しながら、少しずつグラスを傾けていく。

「それが理想、かな。でも、桜さんが彼女になりたいって言ってくれるんならちょっと考えるかも」

 初めて名前を呼ばれたことにドキリとしたがそれを隠すように、またもうこの人! 笑顔で、信じられない! と思い直して、口をつぐんでそっぽを向いた。

「待つの、嫌でしょ?」

 視線を感じて、覚悟してからそちらを向いた。

 やはり、目が合う。

「ですけど……」

「大事に思うなら近づかない。その方がいいのかもしれないけどね……って言いながら今日は思いっきり食事に誘ったけど」

 えー……この人……どうしちゃったの……。どうしよう、絶対酔いのせいじゃない、慣れのせいだ!! こういうこと言うの、慣れてるに決まってる!!

 頭の中をぐるぐるさまざまな思考が巡って食事どころではない。

「あ、ところで、布団は夏輝の家に届けたらいいかな?」

 突然話題を変えられた。

「え、あぁ……はい、すみません……」

「俺の家じゃなくていい?」

 に、決まってるでしょ!! その笑顔に腹が立って、

「だって先生の家に居候したら、帰って来なくて待つから嫌です」

 酔いのせいにして、言い切ってやる。

「あそう」

 先生は楽しそうに笑った。

「でも、俺がどんな生活してるのか気になってるんでしょ?」

 えらく食いついてくるな……。

「そうですね。本もどんな本読んでるんだろう、とか」

 こっちもやけくそになって続ける。

「給料ってどのくらいあるんだろう、とか。彼女いないって嘘だな、とか。ワイシャツのアイロン誰があててるんだろう、とか」

「色々質問したねえ」

「全部どうでもいいことですけど」

 先生はますます笑顔になる。

「そうだねぇ、給料は桜さんくらいなら簡単に養えるくらいの額。

 彼女はいない。

 ワイシャツはクリーニング屋がアイロンかけてる」

「家では洗濯しないんですか?」

 全てを無視して最後だけ聞いた。

「するけどワイシャツは仕事用だし、アイロン面倒だから」

「そうですか……」

「他にない? 何でも聞いていいよー」

「……………」

 数十秒真剣に考える。私はその間食事もとらず、一言もしゃべらなかった。

「ないです」

「ないの!?」

 先生は拍子抜けしたように笑う。

「ないです」

 私は繰り返して答えた。

「あそう、じゃあ今度は俺が質問」

「答えられることにしか答えません」

「いいよー、それで」

 何を聞かれるのか分からず、身構えてしまう。

「今日俺のこと、何回考えた?」

 思いもよらぬ質問に、思わず顔を上げた。

「何十回?」

 先生は射抜くように見つめてくる。

「……2回……くらいです。布団のこと、とか……」

 って何まともに返事してんだ、私!?

「あそう。じゃ、次」

 こういうの苦手だ……思いながら、テーブルを見つめる。

「布団の置き場所を実は迷ってる?」

「え、押し入れがいっぱいって意味ですか?」

 普通に聞いた。

「押し入れいっぱいなの? まあ夏輝のことだからね。じゃあ実際置き場所ないじゃない」

「まあ……そうなりますけど……」

「あ、なんだ。最初から俺んちで良かったのね」

「そんなこと一言も言ってませんけど!?」
 
私は慌てて否定した。

「あそう? じゃ、次」

「はい」 

 いちいち疲れる質問してくるなあ……。

「今日この後どうする?」

「えーと……そう、ですね……」

 かなり食事は進み、もうそろそろ出てもいいくらい、お腹は一杯だ。

「布団を持って来てもらって、寝ます」

「布団で?」

「いや、ベッドで。布団で寝るのは夏輝君がいる時だけです」

「あそう。じゃ、とりあえず店出たら俺んち寄って布団取ろうか」

「あ、すみません。ありがとうございます」

「いやいや、いいのいいのこれくらい」

 先生は笑っていた。妙に笑顔だった。

 それがまさか、こんなことをたくらんでいた下心からくる笑顔だとはこの時は予想もしなかったのである。


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