惚れられても応えられねーんだよ

秘書と妻は紙一重


「一時間の遅刻。いきなり反省文書かせんじゃねー」

 午前9時。寮が建つ敷地のすぐ隣にある本庁の3階、副長室のドアを開けた途端、目に入って来たのは腕を組んだままデスクで眉間に皴を寄せ、タバコをくわえてこちらを睨んでいる新堂であった。

 時間を確認していなかった私は8時集合だったことに今更驚き、慌てて頭を下げた。

「すみませんっ!! はっ、8時が定時だとは……」

 聞いてなかったんですけどッ!!

「仕事っつったら8時に決まってんじゃねーかッ!!で、どうした? 何してたんだ? 朝から総悟とナニか?」

 煙をフーっと吐きながら、こちらを見ずに言う。

 いきなりセクハラかよ……と、内心がっかりしながらも、私は言い訳を始めた。

「…………、稽古です。朝の稽古に参加してました。それで、ご飯食べて着替えたらこの時間に……」

 文句を言われるはずがないと、自信を持って言ったのに、新堂はギロリとこちらを睨んだ。

「なんでアンタが稽古なんかに参加してんだ? そんなの頼んだ覚えはねーぞ」

「でも……私も、稽古、つけてもらいたくて……」

「そんなのする必要ねーだろ。わーったな、明日は8時だ。稽古には参加しなくていい。上司の命令だ」

 デスクの上に置かれた灰皿でタバコをすりつぶし、ペンを取る。

「でもっ……」

「なんだー? 上司に逆らうのか?」

 新堂は言いながら、既にプリントの隅にサインを書き、仕事をはじめている。これ以上、刃向っても仕方ない。

「…………いえ…………」

「…………。いーよ。何だよ。稽古に参加したい理由、言えよ」

 新堂は次に小冊子を広げて読み始めたが、手は止まったままで、目も進んでいない。どうやら話を聞いてくれるようだ。

「私、ここへ来た日、岬さんに助けてもらって……、いざという時、あぁいう風に人を助けられたらいいなと思いました。誰かのために役に立つのなら、努力もしたい……と思って……」

「んなことアンタがしなくても、他の奴がやる。何のために仕事振り分けてんだよ。アンタは外番じゃねー。身体使って人を助ける奴は奴、あんたは、この書類を片付ける役だよ」

 新堂はこれ見よがしに、山積みにしたファイルと1枚のプリントを指差した。

「これが見本、これで抜けてるところを全部チェックしていってくれ」

 全部ってこれ……、ファイルいっぱいにプリントが挟まってますけど、何百枚あるんですか??

「それが終わったら、これ。これは字が汚くてよみづれぇなあ。とりあえず、書き直してくれ。その後また、指示を出す」

「はい……、いつもこれを、お1人で?」

「しゃーねーだろ。中島さんはあんなだし、総悟もこれだ。大人しく机に向かうのなんか俺くれーだよ。おかげでタバコが何本あっても足りねぇ。机はそこ使え」

 新堂が顎で示した斜め隣には、小さな机がある。彼が使っている木製のデスクより一回りも二回りも小さいが、ペンなどの文房具が既に用意されていた。

「お前の席だ」

 椅子にはちゃんと座布団が敷かれ、居場所をきちんと作ってくれている。

 私は嬉しくて、その、まだ書類に視線を落としている鋭い目を見つめて言った。

「私、字を書くのは得意です。自信があります。パソコンも大丈夫です」

「お、そいつぁいい」

 ようやく、こちらを見てくれる。

「書類は期限はねーが、早いことに越したことはねぇ。とりあえず昼まで続けてくれ」




 途中で、お茶を汲みに行こう。そう思っていたのに、気が付いたら11時半にもなっていた。そろそろお昼も近い。

 机に向かって作業をするというのはそれほど苦痛ではなかったが、最初は新堂がタバコを吸ったり吐いたりする動作、または疲れからくる溜息、それらが気になって仕方なかった。

しかし、とにかく仕事を頑張って褒められたい、という目標をかかげてからは、時間も忘れるほどに没頭していた。

 私はふうっと溜息を吐いて、200枚近く作業が進んでいることに満足しながら少し、伸びをする。

 その時、何の遠慮もなくドアが開いた。そこに立っていたのは、スーツ姿の岬だった。

「なんだー、総悟」

 いつものことなのか、新堂は動じずペンを滑らせている。

「新堂さんに用はないですよ。雪乃、俺との稽古の時間です。朝の続きやりましょう」

「んちょっと待て。稽古の時間って何だよ。コイツァ俺の秘書だぞ!?」

「そんなの新堂さんの勝手な思い込みですよ、雪乃が秘書だなんて、誰も知りませんよ?」

「そりゃまあ、今日からだから知らねー奴の方が多いかもしんねーけど……」

 岬は顔を歪める新堂を無視して室内に堂々と入ると私の左腕を引き、立ち上がらせた。

「雪乃は筋がいい。俺の腕次第で、プライベートも俺に切り込む良い剣士になりそうですよ」

「あの、私、稽古……もうできなくて……」

 言いづらいが仕方ない。私は、新堂が凝視しているような気がして、岬の手をそっと払った。

「お前みたいな遊びに付き合ってられっか。こっちは大事な仕事で忙し―んだよ」

 新堂は新しいタバコを出すと、ライターをカチッと鳴らす。

「…………」

 岬が反撃に出るかなと思い、それぞれ黙ったが、本人は口をつぐんで敵を睨みつけている。

「あのっでも、私は朝だけでも……」

「副長!!!」

 外からドタドタと突然現れたのは、部下の1人。

「本庁に何者かが侵入したとの連絡が入りました!!」 

「何!?」

 全員の意識が即侵入者に集中する。

 新堂は間髪入れずにすぐに指示を出す。

「それぞれ緊急時の配置に着け!! 相手が何者であろうとすぐに見つけ出せ!! 場合によって、発砲した場合は俺が責任を持つ!!

 ……中島さんはこんな時に限って留守か……」

「局長は電話にも出ません」

 部下は早口で答えた。

「まあいい、どうせいつものところだろうしな……俺から連絡をしておく」

 言い終わると同時に部下は走り去って行く。それとは対照的に、岬は立ちつくしている。

「おい、お前も早く位置につけ」

 何か気に食わなかったのだろう。表情で丸分かりだ。だが、状況が状況なだけに、岬はしぶしぶ部屋を出て行く。

「…………、あんたは俺に着いて来い」

 さきほどの新堂の、殺気立った指令からは想像もできない静かな声が耳に届く。

「……あ、はい……」

 新堂はドアに向かいながら、低い声で言う。

「俺の側で、大人しくしてな」

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