惚れられても応えられねーんだよ


「はいどーぞ」

「…………」

 軽々とその温かな腕から地面に下されている間に無駄なことを考えすぎたせいで予測を立てるのが遅れた。

「全然掃除してねーから汚ねーけど、適当に座って?」

 夏輝は言いながら、濡れた足のままで堂々と部屋に入っていく。

「……濡れてるし……」

「あ、タオルタオル」

 1人暮らしの男の子の家=汚い、の図式は仕方ないが。掃除してねーから汚ねー、の範囲を超えている。ワンルームの部屋は狭い玄関から奥まで見渡せ、ハンガーにかかった服がずりおちそうになっている物が何着も窓際のカーテンレールにかけられ、ベッドの枠には雨のせいか湿ったパンツが数枚干されている。
 
「はい、タオル。1枚じゃ足りねーか……あ、先生から電話だ。もしもし?」

スマホを耳にあてる夏輝を尻目に、私は濡れた靴を脱いで足元だけは綺麗に拭き、一歩踏み出した。人が通る道は確保されているが、後は何やら分からない物で部屋の隅から隅までごっちゃになっている。使われていない掃除機、おそらく洗濯していないであろうティシャツ。埃をかぶったダンベルも落ちている。

「えー? なあ、ねーちゃん」

 私は呼ばれて振り返った。

「さっきの所にコインロッカーの鍵が落ちてるらしいーけどそう? 先生が見つけたって。そうなら持って帰るけど、違うなら警察届けるって」

「白い札で番号がついたやつですよね? 番号は忘れたけど」

「……203だって。そう?」

 少年の目はとても、澄んでいる。

 私は、ただ正直に口を開いた。

「番号は忘れたけど、あそこにあったなら私のだと思う。今ポケットにないし。その鍵でロッカー開けて、中に黒いバックが入ってたら私の。ピンクのラインが入ってるやつ」

「ちょっと待って……。先生、多分そうだって言ってる。番号覚えてないけど、ロッカーの中には黒いバックが入ってるんだって。どうする? 開ける? ……あ、開ける?」

 先生に指示されたのか、夏輝はこちらを見た。

「どうせいらない物だけど。あそっか。先生が拾ったから先生にあげる」

「え゛!? ……先生、いらないからあげるって言ってるけど……いらないって」

 再び夏輝はこちらを見た。

 良かった、普通の先生だ。

「先生がいる所から近いからバック取って来てもらってもいいかな……すぐ側の駅のロッカーだから」

「うん、先生、悪いけど取ってきて。東駅のロッカーだから」

 それだけ伝えるとすぐに電話は切れた。

「いらねー物なのに、何でわざわざロッカーに預けてんの?」

 夏輝は何か出してくれるつもりなのか、冷蔵庫を物色し始めた。

 私は、悩みながらも、とりあえずテレビの前が少し空いていたのでそこで立っていることにする。座れば間違いなく、床が濡れる。

「お金だから、一応」

「えっ!? 金いらねーの!? それともまさか、ヤバい金!?」

 若々しい、勢いのある反応に、私は思わず笑った。

「さっき言ったけど、私、両親が死んじゃって。それで保険金とかが下りたんだけどね。もう仕事も辞めちゃったし、どうやって生きていっていいのか分かんなくて……」

「……うん」

 夏輝は真剣な顔で聞きながらも、私の目の前に缶コーラを差し出した。

 テーブルもすぐ側にあるにはあるが、カップラーメンの空やプリントで覆い尽くされている。どうやらそこをテーブルとして使う気はないようだ。

「あ、ありがとう。……それで、なんか疲れちゃって……。本当はホテルも昨日まで泊まってたけど、今日はもうチェックアウトしたの。アパート探すにしても、またホテル探すにしても、なんだかもう、どれも疲れて……」

 事故があって以来、心の内を人に話すのは初めてだった。

 もし、夏輝がこんなに素直でなければ話せなかっただろう。

 心につかえていた物が、少しずつ柔らかくなっていくような気がする。今になってようやく、私は誰かに聞いてほしかったんだということを自覚した。

 ピンポーン。

 夏輝が言葉を返すより早く、インターフォンが鳴った。

「あれっ、先生もう来た!?!?」

 夏輝は大げさに驚き、慌てて玄関に寄った。さすがにコメントに困っていたのだろう。実に良いタイミングで先生が現れてくれたといえる。

「何もしてないだろうな」

 玄関を開けるなりの先生の小声が微かに聞こえ、さすがにギクリとしたが

「そんで急いで来たのかよ? んなわけねーし……」

 平たい目をして先生を見る夏輝の顔が可愛らしい。

 先生は気にせず私に話しかけてくれる。

「荷物、着替えですかね、もしかして。僕達出て行きますんで、着替えて……」

「金だって、その中」

「え?」

 先生はバックを持ち上げてしげしげと見た。おそらく、それにしては軽いと思ったのだろう。当然通帳と印鑑しか入っていない。

「って……」

 ヤバい方に巻き込まれたと不安顔になる先生に申し訳なくて、私は素早く、

「あの、私のお金です」

と正直に話すが、これでは何の説明にもならない。

「まあとにかく。着替えてください。話はそれからでも結構」

 先生は靴を脱いで上がり、バックを差し出してくれた。

「あ、はい」

 着替えも一緒に入っていて良かった。

「洗面所かどこか、お借りできたらそれで構いませんので」

「あぁ、そうですか。じゃあそこで。ちょっと待って下さいね」

 先生は玄関のすぐ側にあるドアを開けて中を確認する。

「あー……汚いですけど、どうぞ」

「ってここ俺んち」 

 ふてくされ顔の夏輝が言った。

「汚いのに変わりないでしょーが。マットも干してなくて汚いでしょうから良かったらタオルでも敷いて……」

 先生は冷蔵庫にひっかかっていたタオルを見て、

「綺麗なぞうきんでもいいからないの?」

「これ昨日替えたタオルだよ!! 」

 さすがに笑った。

「大丈夫です。私の方こそ濡れたままですみません。すぐに着替えますから」

 そこでパタンとドアを閉めて中へ入る。確かに、お世辞でも綺麗とは言い難い洗面室だ。狭く、壁も薄く、黙って着替えていると外から2人の声がよく聞こえる。

「ちぇー、先生美人だとすーぐこれだ。何がタオルでも敷いて、だよ」

「あのね、そうじゃなくて普段から掃除くらいしろってこと。一人前の社会人になるには掃除くらいできないと駄目なんだよ。常識」

「いーじゃん、俺だってまだ学生なんだしー」

「だからその準備をしろって言ってんの。それにこれ、一体いつのご飯?」

「仕方ねーだろー!! ラーメンの気分だったんだから、ご飯が余ったんだよ!!」

「……」

 心地良いテンポの会話をずっと聞いていたかったが仕方ない。私は着替え終わるとドアを開いた。

「ありがとうございます。すみません」

「いいえいいえ、さ、そうですね……」 

 先生は部屋を見渡して、座る場所を探した。

「テレビの前が空いてるよ」

 夏輝は、そこが来客用定位置だとでも言うように指を差した。

「こんな狭い所ですみません」

 再び缶コーラーを前に、夏輝と先生はベッドに、私は地べたに3人で腰を下ろした。

「本当にありがとうございます。あの、私……」

「両親が死んで、1人ぼっちなんだって」

 夏輝はさらりと言ってのける。

「えっ?」

 わけのわからない先生は、目をぱちくりさせ、次に夏輝を睨んだ。

「そんで家売った金と保険金がそのバックの中に入ってるって。今はホテル暮らししてるらしいんだ。あ、チェックアウトしたんだっけ。 でまあ、疲れてあそこで寝てたって」

「いえっ、寝てたわけではありません!! あの、ちょっと疲れて……。す、すみせまん、なんか変な人だと思われてるといけないですね。あ、免許証とか見せましょうか」

 私は、バックの中を手探りしてポーチを探す。

「いや、そういうことはいいんですが。それにしても災難でしたね。ご両親が……」

「でも俺も一緒だよ。俺なんか生まれた時からいねーから」

 夏輝の思いもよらない告白に、私は目を見開いた。

「そんなところを一緒にしなくていいから。そうですか……でも、まだお若いので十分将来がありますよ」

「…………」

「今は、少し休養を取られて、出直してみてはいかがですか? 」

「なかなか、今はそんな気持ちには……」

 先生の言葉はとても優しいが、早々とそんな気持ちになれるものじゃない。

「できるよ、ねーちゃん。俺だって両親いねーんだから。それでも俺、医者目指して頑張ってんだよ。俺なんか、親戚の所に預けられんのが嫌で、家でずっと1人で暮らしてた。近所に親戚がいたけど食べ物持ってくるくらいであとは全部自分だ。小学校の時には全部自分でやってんだぜ? 
……誕生日ケーキとか、食べたこともねぇ。おかげで勉強も碌にできねぇし。けど、先生に出会って、俺も先生みたいな医者になろうって決めて。そっからは勉強の毎日だよ! 」

 医者……その、金髪からは想像もできない夢に、私は驚いた。

「誕生日ケーキ食べたでしょ。去年」

 先生はすかさず指摘する。

「食べたけど。だから、親とは食べたことねーって意味」

「お前を育ててるんだ。俺の気持ちは親だよ」

 先生はさらりと言ってのける。夏輝はその言葉に相当心打たれたのか、言葉を失って止まった。

「まあ、他人の私がとやかく……」

「私っ、病院の事務で働いてたんです!! いやあの、そんなこと、関係ないんですけど……」

「以前はどちらでお勤めに?」

「桜美院病院です」

「あぁ、なら再雇用お願いしたらどうですか? あそこならいけそうですが」

「何だよ先生。あそこは難関だって……」

「偶然知り合いがいてね。もしかしたらねじ込んでもらえるかも……いや、分かりませんけどね。それに、一流の病院で働いてたのならどこででもやっていけるでしょう」

「……そう……でしょうか……」

 再び働く……何故今、こんな気持ちになれるのだろう。

「すげー自信。自分が通ってる病院一流って」

「事実だよ。お前もそのくらい自信が持てる医者になれ。

 ……そうですね、事務方に話を通しても構いませんよ? こんな所でぼんやりしてるより、ずっといい」

「…………」

 さっきまで死のうなんて考えていたのに、突然そう言われても……。ただ、悪い気はしない。

「もしかしたら僕とも病院で会ったことがあったのかもしれませんね。私は小児外科の加納 駿二(かのう しゅんじ)です。良かったら、連絡下さい」

 先生は胸ポケットに手を突っ込むが、

「連絡って、携帯とかあんの?」

 夏輝に聞かれて、私はすぐに首を振った。

「しかも今日泊まるとこある?」

「まだないけど、ホテルでも……お金は、あるし……」

「あぁ、じゃあ……」

 と言いかけた先生の言葉を夏輝が遮った。

「俺んちは?」

「……お前ね、こんな汚い部屋にどうやって泊まるわけ?」

「そりゃ掃除すればいいし。でも俺、もっとねーちゃんと話してたいなって。ねーちゃんになら聞いてみたいんだ。親ってどんな風だったのか」

 夏輝の提案に心打たれたのか、どうなのか、加納は複雑な表情を見せた。

「夏輝……」

 もう今は死んでいない親の自慢話なら聞いても羨ましくない、平常心で聞ける……夏輝はそう思ったのだろうか。

「いいよ……」

 私は、雑念を一切なくして、快諾する。
 
「いやあの……、まあ、コイツは大丈夫な奴ですが……」

 フォローしきれない先生の迷いを、夏輝は低い声で一言一掃した。

「先生、余計なこと考えすぎなんだよ。俺はただ、話を聞いていたいだけなんだ」

< 3 / 41 >

この作品をシェア

pagetop