惚れられても応えられねーんだよ
硬派な男の感情だけに苦しくて悔しくて切ない
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2か月前まで、「雪乃」と呼んでいたのに、戸籍が「桜」だと分かった途端、桜だと認識できてしまうから人間の順応性とは不思議だ。
桜は結局俺の秘書に復帰することはなく、寮の掃除や手伝いをして総悟と同じ部屋に住み、総悟を支えてきた。
医者ともガキや総悟の手助けがあったおかげでなんとか切れたらしく、今のところ、除くべき障害は何もない。
新居も結婚と同時に借りることにしたらしく、今は挙式の準備で方々への挨拶周りや事務手続きに追われている。
中島さん、俺、総悟の一番のダチの中で、一番年下だった総悟がまさか結婚するなんて、未だに信じられない。
俺は、居酒屋のカウンターで1人飲みながら明後日の式のスピーチの緊張を一旦忘れようとしていた。
天井に吹いたタバコの煙は、すぐに消える。
ずっと目で追っていたくても、特に、風が吹けばすぐにかすんでしまう。
もう一本、お銚子をつけてもらおう。そう思って顔を上げた時、
ガシャン!!!!!!
店の外から何かか倒れるようなものすごい音が聞こえた。
女将が、
「何!?」
と、慌てて裏口を覗いている。
「大丈夫!? 」
「あっ、平気です、暗くてつまづいて……」
「まあまあ。ちょっと中入りなさいよ。絆創膏くらいならあるから」
「いえいえ!! 大丈夫です!! 平気です、平気です!!」
最初は小さな声だったが、最後の「平気です」という声に聞き覚えがあった。
俺はすぐに立ち上がり、裏口に近づく。
「あっ、おいっ、お前!!……」
「あ……」
片足を押さえ、明らかに大丈夫そうではない顔で見上げて来るのは、間違いようのない、桜であった。
「お前、何してんだよこんなとこで!!」
「なんだい、知り合いかい? ……あ!! あんた!! 暗くて顔が分からなかったよ。丁度良かったねえ。新堂さんに送ってってもらいな」
「おう、金は置いとくよ」
俺は財布から多めの一万円を取り出してカウンターの上に置き、桜に近寄ってしゃがんだ。
一瞬、身を引く桜。
だが俺はそれに構わず足を診た。
「これ……折れてるかもしんねぇぞ。どうだ、立てるか?」
「えっ!?」
あまりに、桜が俺を意識しすぎていることにイラっときてしまい、つい大声を出す。
「立てるかって聞いてんだよ!!」
「あっ……はい!!」
桜は慌てて身体を起こしたせいで、バランスを崩し、俺がいる方とは逆に倒れそうになる。
俺は咄嗟に手を差し伸べ、その細い腰を掴んだ。
桜の右手がカチコチに固まって、俺の背中に軽く触れる。
肩を組み、足を庇ってやっているだけだが、
「…………」
もはや、桜の表情は尋常ではない。赤面しきって、唇を結び、視点が固まっている。
俺は舌打ちをして、
「じゃあこっちから出るわ。悪いな」
「いやいいんだよ。気をつけて帰りな!!」
店が忙しく、女将はこちらを見ずに声だけかける。
俺は店の裏口のドアを閉めると、桜の左足を支えながら、一歩踏み出した。
「おぶってやるよ。その方が早い」
「いっ、いいですっ!! 重いしっ!!」
「…………あそう」
まあ、嫁入り前の女が他人の男におぶられるのもおかしいか。
俺は気を取り直して、前に進んだ。
「何してんだよ、こんなとこで。総悟が出張でいねーからって、夜遊びとはいい度胸だ」
俺は雰囲気を変えるために明るい声を出した。
「そこの……神社までお参りに……」
「へ? わざわざこんな時間に?」
「深夜11時を過ぎてからっていう……お参りなんです。ちょっと変わってますけど」
そういえば前に、不倫の主婦が男との縁を結ぶためとかゆーのが流行ってたような……。
「ふーん、女はそういうの好きだからなあ」
もちろん俺は知らないふりを決め込む。
「…………」
「…………」
桜は、こちらが話しかけるまで話さないつもりか、黙っている。それならそれでいいかと、俺も黙って足を進めた。
しかし、路地をゆっくり歩いて帰るとなると、寮まで15分はかかる。俺はそれに気づくと、
「おい、大通りに出てタクシーで帰るぞ。こんなんじゃ時間がかかるし、お前も足が痛ぇだろ」
「えっ……私は、別に……」
背中にある桜の手に少し力が入った。
「別にじゃねーよ。余計……」
「私は別に、このままでいい」
俺はこれみよがしに大きく溜息を吐いた。なんでこんな時だけ、はっきりと大声が出せるかね……。
「いーや、タクシーで帰る。いやなら1人で歩いて帰れ。俺はタクシー拾ってくっからな」
その流れに乗ってはいけない、そう思って桜の肩から手を離そうとした途端、角からバイクがスピードを出したまま曲がって来る。
「あっぶねーだろーが!! どこ見てんだよ!!」
咄嗟に桜の肩を抱き、隣家の壁に背中を預けた。
バイクは一度だけ振り向き、そのまま走り去ってしまう。
「チッ……」
睨みをきかせた後、ようやくハッと気付いた。
思い余って力を入れたせいで、胸の中に抱きしめてしまっている。
俺は慌てて肩を掴んで胸から離した。
「やだ!!」
「ちょッ!!!」
っと待て……。ふ、っざけんな……。
桜はここぞとばかりに腰に腕を絡めてくる。
何が、やだ、だ。
「他の人と結婚してもいいくらいにその人が好き」
今まで忘れようとしていた、それでも忘れられない、衝撃的な言葉が頭を回る。
「ち、ちょっと離れろ。お前いい加減にしろよ」
控えめに両腕を掴んだ。だがそれが逆効果だったのか、桜はより一層腕に力を込めてくる。
柔らかな胸が、俺の胸下に当たる。
それを可愛いと思ってしまっている自分がいる。
一瞬、唇を奪う絵が浮かんでしまう。
「やめろ。離せ」
その妄想を取り払うように俺は低い声で脅し、思い切り腕を払いのけた。
「…………」
「お、お前っ、足が痛いからって絡んでんじゃねーよ」
「…………」
せっかく柔らかく排除してやったのに、桜は俯いて、立ち尽くすばかりで何も言わない。
「俺タクシー拾ってくっから。お前はここで待ってろ」
少し頭を冷やさなければ、と慌ててその場を離れた。
速足で路地を抜け、心を落ち着かせようと、胸ポケットに手をやりタバコを探す。
少し歩いてから、後ろで物音がしたなと思ったのでふっと振り返ると、桜が壁をつたいながら片足で歩いて来ていた。
「お前、待ってろって言ったろ!? ちったぁ俺の言うこと聞け! 」
俺は手を貸そうと細い肩に腕を回した。
そこで、初めて泣いていることに気付く。
「言うことなんか、聞かない。私の言うことだって、聞いてくれないくせに」
桜は、俺の腕をすり抜け、そのまま先へ進んで行ってしまう。
片足を庇いながら歩くせいで、よろけたりふらついたりしている。
「おいお前」
桜は、俺の言葉に簡単に足を止めた。
俺の言うことなら聞くに決まっている。総悟の言うことを聞かなくても、俺の言うことなら聞くに決まってる。
知ってるさ、お前が最初から俺に惚れてることくらい。
気付いてるさ、お前が俺に惚れてることに、総悟も。
だから、いくらお前のことを可愛らしいと思おうとも、俺はこの手を伸ばしてはいけない。
お前の顔に触れでもしたら、俺は間違いなく、お前を落としてしまうんだよ。
「骨折なんて、総悟が心配するだろーが。ほら、帰って電話してやれ」
俺は何事もなかったかのように再びお前の肩を抱き、大通りへと進む。
肩は尋常じゃないくらい震えている。
涙が顎から下へ滴り、幾粒も幾粒も落ちていることに気付いている。
「お前が泣いてるわけなんか、俺の知っこっちゃねーけどよ……」
「……」
お前は口を開いたが、俺はそれを遮った。
「俺は、俺なりにお前らを幸せにしてやる。だから、お前は総悟を幸せにしてやれ、それが一番いいんだよ」
恰好よく決まったはずなのに、俺は肩を抱く手に逆に力を込めてしまっていた。
鳴き声が、一層強くなる。
だが俺ができることは何もない。
今までもこれからも、俺がお前にしてやれることは、見守るくらいしかねーんだよ。
2か月前まで、「雪乃」と呼んでいたのに、戸籍が「桜」だと分かった途端、桜だと認識できてしまうから人間の順応性とは不思議だ。
桜は結局俺の秘書に復帰することはなく、寮の掃除や手伝いをして総悟と同じ部屋に住み、総悟を支えてきた。
医者ともガキや総悟の手助けがあったおかげでなんとか切れたらしく、今のところ、除くべき障害は何もない。
新居も結婚と同時に借りることにしたらしく、今は挙式の準備で方々への挨拶周りや事務手続きに追われている。
中島さん、俺、総悟の一番のダチの中で、一番年下だった総悟がまさか結婚するなんて、未だに信じられない。
俺は、居酒屋のカウンターで1人飲みながら明後日の式のスピーチの緊張を一旦忘れようとしていた。
天井に吹いたタバコの煙は、すぐに消える。
ずっと目で追っていたくても、特に、風が吹けばすぐにかすんでしまう。
もう一本、お銚子をつけてもらおう。そう思って顔を上げた時、
ガシャン!!!!!!
店の外から何かか倒れるようなものすごい音が聞こえた。
女将が、
「何!?」
と、慌てて裏口を覗いている。
「大丈夫!? 」
「あっ、平気です、暗くてつまづいて……」
「まあまあ。ちょっと中入りなさいよ。絆創膏くらいならあるから」
「いえいえ!! 大丈夫です!! 平気です、平気です!!」
最初は小さな声だったが、最後の「平気です」という声に聞き覚えがあった。
俺はすぐに立ち上がり、裏口に近づく。
「あっ、おいっ、お前!!……」
「あ……」
片足を押さえ、明らかに大丈夫そうではない顔で見上げて来るのは、間違いようのない、桜であった。
「お前、何してんだよこんなとこで!!」
「なんだい、知り合いかい? ……あ!! あんた!! 暗くて顔が分からなかったよ。丁度良かったねえ。新堂さんに送ってってもらいな」
「おう、金は置いとくよ」
俺は財布から多めの一万円を取り出してカウンターの上に置き、桜に近寄ってしゃがんだ。
一瞬、身を引く桜。
だが俺はそれに構わず足を診た。
「これ……折れてるかもしんねぇぞ。どうだ、立てるか?」
「えっ!?」
あまりに、桜が俺を意識しすぎていることにイラっときてしまい、つい大声を出す。
「立てるかって聞いてんだよ!!」
「あっ……はい!!」
桜は慌てて身体を起こしたせいで、バランスを崩し、俺がいる方とは逆に倒れそうになる。
俺は咄嗟に手を差し伸べ、その細い腰を掴んだ。
桜の右手がカチコチに固まって、俺の背中に軽く触れる。
肩を組み、足を庇ってやっているだけだが、
「…………」
もはや、桜の表情は尋常ではない。赤面しきって、唇を結び、視点が固まっている。
俺は舌打ちをして、
「じゃあこっちから出るわ。悪いな」
「いやいいんだよ。気をつけて帰りな!!」
店が忙しく、女将はこちらを見ずに声だけかける。
俺は店の裏口のドアを閉めると、桜の左足を支えながら、一歩踏み出した。
「おぶってやるよ。その方が早い」
「いっ、いいですっ!! 重いしっ!!」
「…………あそう」
まあ、嫁入り前の女が他人の男におぶられるのもおかしいか。
俺は気を取り直して、前に進んだ。
「何してんだよ、こんなとこで。総悟が出張でいねーからって、夜遊びとはいい度胸だ」
俺は雰囲気を変えるために明るい声を出した。
「そこの……神社までお参りに……」
「へ? わざわざこんな時間に?」
「深夜11時を過ぎてからっていう……お参りなんです。ちょっと変わってますけど」
そういえば前に、不倫の主婦が男との縁を結ぶためとかゆーのが流行ってたような……。
「ふーん、女はそういうの好きだからなあ」
もちろん俺は知らないふりを決め込む。
「…………」
「…………」
桜は、こちらが話しかけるまで話さないつもりか、黙っている。それならそれでいいかと、俺も黙って足を進めた。
しかし、路地をゆっくり歩いて帰るとなると、寮まで15分はかかる。俺はそれに気づくと、
「おい、大通りに出てタクシーで帰るぞ。こんなんじゃ時間がかかるし、お前も足が痛ぇだろ」
「えっ……私は、別に……」
背中にある桜の手に少し力が入った。
「別にじゃねーよ。余計……」
「私は別に、このままでいい」
俺はこれみよがしに大きく溜息を吐いた。なんでこんな時だけ、はっきりと大声が出せるかね……。
「いーや、タクシーで帰る。いやなら1人で歩いて帰れ。俺はタクシー拾ってくっからな」
その流れに乗ってはいけない、そう思って桜の肩から手を離そうとした途端、角からバイクがスピードを出したまま曲がって来る。
「あっぶねーだろーが!! どこ見てんだよ!!」
咄嗟に桜の肩を抱き、隣家の壁に背中を預けた。
バイクは一度だけ振り向き、そのまま走り去ってしまう。
「チッ……」
睨みをきかせた後、ようやくハッと気付いた。
思い余って力を入れたせいで、胸の中に抱きしめてしまっている。
俺は慌てて肩を掴んで胸から離した。
「やだ!!」
「ちょッ!!!」
っと待て……。ふ、っざけんな……。
桜はここぞとばかりに腰に腕を絡めてくる。
何が、やだ、だ。
「他の人と結婚してもいいくらいにその人が好き」
今まで忘れようとしていた、それでも忘れられない、衝撃的な言葉が頭を回る。
「ち、ちょっと離れろ。お前いい加減にしろよ」
控えめに両腕を掴んだ。だがそれが逆効果だったのか、桜はより一層腕に力を込めてくる。
柔らかな胸が、俺の胸下に当たる。
それを可愛いと思ってしまっている自分がいる。
一瞬、唇を奪う絵が浮かんでしまう。
「やめろ。離せ」
その妄想を取り払うように俺は低い声で脅し、思い切り腕を払いのけた。
「…………」
「お、お前っ、足が痛いからって絡んでんじゃねーよ」
「…………」
せっかく柔らかく排除してやったのに、桜は俯いて、立ち尽くすばかりで何も言わない。
「俺タクシー拾ってくっから。お前はここで待ってろ」
少し頭を冷やさなければ、と慌ててその場を離れた。
速足で路地を抜け、心を落ち着かせようと、胸ポケットに手をやりタバコを探す。
少し歩いてから、後ろで物音がしたなと思ったのでふっと振り返ると、桜が壁をつたいながら片足で歩いて来ていた。
「お前、待ってろって言ったろ!? ちったぁ俺の言うこと聞け! 」
俺は手を貸そうと細い肩に腕を回した。
そこで、初めて泣いていることに気付く。
「言うことなんか、聞かない。私の言うことだって、聞いてくれないくせに」
桜は、俺の腕をすり抜け、そのまま先へ進んで行ってしまう。
片足を庇いながら歩くせいで、よろけたりふらついたりしている。
「おいお前」
桜は、俺の言葉に簡単に足を止めた。
俺の言うことなら聞くに決まっている。総悟の言うことを聞かなくても、俺の言うことなら聞くに決まってる。
知ってるさ、お前が最初から俺に惚れてることくらい。
気付いてるさ、お前が俺に惚れてることに、総悟も。
だから、いくらお前のことを可愛らしいと思おうとも、俺はこの手を伸ばしてはいけない。
お前の顔に触れでもしたら、俺は間違いなく、お前を落としてしまうんだよ。
「骨折なんて、総悟が心配するだろーが。ほら、帰って電話してやれ」
俺は何事もなかったかのように再びお前の肩を抱き、大通りへと進む。
肩は尋常じゃないくらい震えている。
涙が顎から下へ滴り、幾粒も幾粒も落ちていることに気付いている。
「お前が泣いてるわけなんか、俺の知っこっちゃねーけどよ……」
「……」
お前は口を開いたが、俺はそれを遮った。
「俺は、俺なりにお前らを幸せにしてやる。だから、お前は総悟を幸せにしてやれ、それが一番いいんだよ」
恰好よく決まったはずなのに、俺は肩を抱く手に逆に力を込めてしまっていた。
鳴き声が、一層強くなる。
だが俺ができることは何もない。
今までもこれからも、俺がお前にしてやれることは、見守るくらいしかねーんだよ。