夜香花
「何、怯えることはねぇ。わしがここに住み着いたのは、もう大分昔の話だ。お前さんなんか、まだよちよち歩きの頃だろうぜ。それからはここは、静かなもんだ。安心しな」

 捨吉の目が光った。
 が、それは一瞬で、迷うような素振りを見せる。

「おっさんは、今は戦働き(いくさばたらき)はしてないのかい?」

 傭兵は、戦ごとに雇われる野武士だ。
 元々百姓だった者はともかく、根っからの野武士は、戦が終わると仕事がない。
 そういった者は、大抵近隣の村々を荒らし回る野伏せり(のぶせり)になるのだ。

「やろうにも、できねぇよ。でも山の暮らしも悪くねぇ」

 ぽん、と男は、自分の右足を叩いた。
 少し捲り上げられた裾からは、大きな傷が窺えた。

「どうやら筋をやられたらしくてな。速く動くことが出来ねぇ。でも、山で暮らす分にゃ、さほど不自由はねぇぜ。どっちにしろ、今から伏見までなんざ、お前らの足じゃ山ん中で日が暮れる。夜の山は怖ぇぞ」

 実際は、ここまでよりも速度を上げて行く予定だったので、日暮れ前には伏見まで行ける。
 だが男の言うとおり、普通の子供の足でならば、いくらも行かないうちに日が暮れよう。
 山奥での子供だけでの野宿など、自殺行為に等しい。

 それに。
 捨吉は、男の進む方角を見て、そっと深成に笑いかけた。

 おそらく男は、赤目の里に住んでいるのだ。
 深成のことが、もっとわかるかもしれない。
 二人は男の後についていった。
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