夜香花
「本心も何も、すでに決まったことではありませんか。秋口には、わらわは小十郎様の元へと輿入れするのでしょう?」

「於市」

 不意に利世が、真剣な表情で居住まいを正した。
 思わず深成も、姿勢を正す。

「お前は、今のようにお部屋に籠もっているよりも、お外で動き回るほうが好きでしょう?」

「……それは……」

 深成は言葉に詰まった。
 確かに昔はそうだった。
 だがそれなりの歳になれば、武家の娘ともあろうものが、そんな外を駆け回って忍びらと遊ぶなどということは、考えられないことだとわかる。

 それに、ここに来てからは、外を駆け回ること自体、したいとも思わなかったのだ。
 少し前に六郎に言ったように、九度山に来てからは、心が動くことがない。
 全ての感覚が閉ざされたように、何も感じない。

 己の身に何が降りかかっても、どうでもいい、という感じだ。
 自分の人生が自分のものではないような、どこか遠い場所から己の姿を眺めているような、そんな感覚。

 ただ、利世に里の話をしているときだけ、どこかに行っていた自我が身体に戻るような、いつものぼんやりとした感覚ではなく、はっきりとした意思が身体に通るような、そんな感じがしていた。

 だが一方で、その感覚を恐れてもいた。
 あまり深く里のことを思い出すと、身体の底から何か強い力が湧き上がって、自分がどうにかなってしまうような。
 今のこの平穏さを壊してしまうような不安を感じるのだ。

 それが何故なのか、わかっているのだろうが、心が拒否している。
 心が、『それ以上、里のことを思い出すな』と警告するのだ。
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