くじらを巡る冒険
§1 小さなうそ
どこかでヒグラシが鳴いていた。
ペンキの剥げたジャングルジムの向こうに、朱色に染まるマンションの窓が並んで見えた。
ベランダの洗濯物を取り込む人、布団をはたく音。買い物帰りのおばさんの影が、長く伸びた僕らの影と重なっては離れていく。
「いち、に」
と数えながらボールを蹴る。失敗して転がったそれを僕が拾いに行っている間も、あいつは黙々と同じリズムでボールを蹴り続けていた。
右、左、右、左、
額に浮かぶ汗を拭おうともせず、たぶん、公園の街灯に火が灯ったことにだって気付いていない。それを鉄棒にもたれて見ていると、ふいにあいつが足を止めた。
「何?」
「えっと」
僕は咄嗟に言葉を探した。
「明日で夏休み終わりだね」
「ああ」
あいつが器用に足先でボールをすくう。
「……あのさ」と僕は言った。
「そのボール貸してよ」
あいつはもう一度足を止めた。
「何で?」
「いーから!」
僕は強引にボールを取り上げ、「おい!」と詰め寄るあいつを押し返した。
「今日だけ!今日だけでいいんだ。代わりに俺の貸すから。ほらこれ、今度のワールドカップの公式モデルなんだ。な、いいだろ?友達だろ?」
お願い!と手を合わせると、あいつは小さく肩をすくめた。
「明日返せよ」
「おう!」
七時を告げるサイレンが鳴る。僕らは拳と拳をぶつけ、いつものように笑顔で「また明日」「またな!」と言って手を振った。
玄関を開けると、下駄箱の脇に段ボールが積んであって、読まなくなった絵本とか、いつ買ってもらったのかも忘れた木の列車とか、色んな物が放り込まれていた。テーブルに見慣れない服が置いてあって、
「何これ?」と尋ねると、
「新しい学校の制服よ」と母さんは言った。
「四年生は名札の色が緑色なんだって」
「ふーん」
そんなことどうでも良かった。制服なんて着たくもないし。
「俊希くんとちゃんとお別れできた?」
「……うん」
僕は曖昧に頷いた。
「そう」
と母さんは目を伏せた。今度は長くいれると思ったのにね、と言って洗濯物をたたむ横顔に、僕は笑顔で返した。
「見てほら!サッカーボールを交換したんだ!あいつすっごい巧かったけど、いつか俺が抜かしてやるって約束したんだ。そしたらあいつ何て言ったと思う?俺には必殺サイクロンシュートがあるから負けねえ!て言うんだ。そんなん俺だってできるし!」
ボロボロに使い込まれたあいつのボールを得意げに見せると、母さんは少しだけ笑ってくれた。
次の日もヒグラシが鳴いていた。
走り出した車の窓から、いつも二人でいた公園でボールを蹴るあいつの姿が見えた。
右、左、右、左、
見慣れたリズムが僕の横を通り過ぎていく。
真っ白いボールがふわりと浮かぶ。
ディエマで遊んだベンチとか、泥団子を転がしたゾウのすべり台とか、僕よりほんのちょっとだけ大きいあいつの背中がガードレールの向こうに離れていく。
あいつのボールを抱きしめていると、ふいに父さんが車を止めた。顔を上げると、助手席の母さんと目があった。
「すぐ戻るから!」
ボールを抱え、転がるように車を飛び出した僕の頭の上に、毎日あいつと見上げていた、わたがしみたいな夕焼け雲が広がっていた。
「小さなうそ」完
ペンキの剥げたジャングルジムの向こうに、朱色に染まるマンションの窓が並んで見えた。
ベランダの洗濯物を取り込む人、布団をはたく音。買い物帰りのおばさんの影が、長く伸びた僕らの影と重なっては離れていく。
「いち、に」
と数えながらボールを蹴る。失敗して転がったそれを僕が拾いに行っている間も、あいつは黙々と同じリズムでボールを蹴り続けていた。
右、左、右、左、
額に浮かぶ汗を拭おうともせず、たぶん、公園の街灯に火が灯ったことにだって気付いていない。それを鉄棒にもたれて見ていると、ふいにあいつが足を止めた。
「何?」
「えっと」
僕は咄嗟に言葉を探した。
「明日で夏休み終わりだね」
「ああ」
あいつが器用に足先でボールをすくう。
「……あのさ」と僕は言った。
「そのボール貸してよ」
あいつはもう一度足を止めた。
「何で?」
「いーから!」
僕は強引にボールを取り上げ、「おい!」と詰め寄るあいつを押し返した。
「今日だけ!今日だけでいいんだ。代わりに俺の貸すから。ほらこれ、今度のワールドカップの公式モデルなんだ。な、いいだろ?友達だろ?」
お願い!と手を合わせると、あいつは小さく肩をすくめた。
「明日返せよ」
「おう!」
七時を告げるサイレンが鳴る。僕らは拳と拳をぶつけ、いつものように笑顔で「また明日」「またな!」と言って手を振った。
玄関を開けると、下駄箱の脇に段ボールが積んであって、読まなくなった絵本とか、いつ買ってもらったのかも忘れた木の列車とか、色んな物が放り込まれていた。テーブルに見慣れない服が置いてあって、
「何これ?」と尋ねると、
「新しい学校の制服よ」と母さんは言った。
「四年生は名札の色が緑色なんだって」
「ふーん」
そんなことどうでも良かった。制服なんて着たくもないし。
「俊希くんとちゃんとお別れできた?」
「……うん」
僕は曖昧に頷いた。
「そう」
と母さんは目を伏せた。今度は長くいれると思ったのにね、と言って洗濯物をたたむ横顔に、僕は笑顔で返した。
「見てほら!サッカーボールを交換したんだ!あいつすっごい巧かったけど、いつか俺が抜かしてやるって約束したんだ。そしたらあいつ何て言ったと思う?俺には必殺サイクロンシュートがあるから負けねえ!て言うんだ。そんなん俺だってできるし!」
ボロボロに使い込まれたあいつのボールを得意げに見せると、母さんは少しだけ笑ってくれた。
次の日もヒグラシが鳴いていた。
走り出した車の窓から、いつも二人でいた公園でボールを蹴るあいつの姿が見えた。
右、左、右、左、
見慣れたリズムが僕の横を通り過ぎていく。
真っ白いボールがふわりと浮かぶ。
ディエマで遊んだベンチとか、泥団子を転がしたゾウのすべり台とか、僕よりほんのちょっとだけ大きいあいつの背中がガードレールの向こうに離れていく。
あいつのボールを抱きしめていると、ふいに父さんが車を止めた。顔を上げると、助手席の母さんと目があった。
「すぐ戻るから!」
ボールを抱え、転がるように車を飛び出した僕の頭の上に、毎日あいつと見上げていた、わたがしみたいな夕焼け雲が広がっていた。
「小さなうそ」完
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