くじらを巡る冒険
§9 回らない風見鶏の話
 厚めのベーコンをフライパンに載せ、テレビの電源を入れると、見覚えのある街並みが映し出されていた。
 神戸異人館――
 潮の香りとともに少しだけ懐かしい煉瓦造りの景色が脳裏をよぎる。北野坂の銀杏並木を登っていくと、風見鶏の館と呼ばれる洋館に突き当たる。色鮮やかな煉瓦の外壁、石積みの玄関ポーチ、二階のハーフ・ティンバー、まるでドイツ郊外を思わせるそれらは、外交貿易で栄えた神戸の街並に巧く溶け込んで、それはそれは素晴らしい名脇役っぷりを演じてみせていた。そう、彼らは決して主役ではない。この坂の上の洋館では、たいした飾りもなく、ただ風に揺られてくるくると回るだけの屋根の上の鶏こそが主役なのだ。なぜってそりゃ、風見鶏の館だから。
「相変わらずのひねくれ者だね」
 とあいつは言うだろう。ええどうせ私はひねくれ者ですよ。でもじゃあそれを知っていてわざとそう言うあいつは何なの?
「自分だって同じじゃない」
 なんて別に言い返すつもりもないけど、あいつのことだからそんなことを私が言わなくたって、「顔に書いてあるよ」とでも言いたげにくくっと喉を鳴らしてアールグレイティーをちびりと飲むのだろう。
 風見鶏は館から離れてみなければ決して見えない。館の中で上を向いたって、見えるのはきらびやかに装飾された美しい天井でしかないのだから。灯台もと暗しとはよく言ったもので、およそ物事の本質とはそういう物なのかも知れない。あいつのことも、私自身のことも。何というか、厄介だ。
 テレビから目を逸らし、表面がカリリと仕上がるまでベーコンを焼く。卵を落とす。安く手に入れたものだから、きっとブロイラー産なのだろう。正直あまり好きじゃない。それでも屋根の上でふんぞり返っているだけの鶏よりは、卵を産むだけ幾らかありがたいに違いない。そんな事を思いながらベーコンエッグを皿に移してテーブルにつくと、いつの間にかさっきの番組は終わっていた。
 テーブルに肘を突く。テレビを消す。一人の食事にももう慣れた。なのになんだかフォークが進まない。それもこれもあの風見鶏のせいに違いない。南向きに大きく開いたリビングのカーテンが風になびいていた。少し閉めておこうと椅子を引くと、キッチンの窓から差し込んだ西日に照らされて、真っ白な皿が橙色に染まっていた。

 早めの夕食を済ませ、いつものように街の雑踏に足を向ける。テラスでくつろぐ老人、路地を走る子供、紙袋に山ほどリンゴを詰めた母親。街ゆく人々の背中が、みな一様に夕日を背負い、暖かく輝いていた。遠くで汽笛が聞こえる。そう言えばこの街はあそことどこか似ている。港が近い観光地だったり、永遠続く坂道だったり。私がこの街を選んだのも、もしかしたらあいつのせいなんだろうか、と考えると、なんだか少しムカついてくる。ああそうね、もしかしたらこの街のどこかに風見鶏だっているかも知れない。
 路地を抜け、がらんとした円形状の広場に出る。ベンチに腰掛け、空を見上げる。モミの木の上、青から桔梗色、桔梗色から緋色に変わっていく夕空にカモメの影が差す。
 ふと、水しぶきが舞った。
 噴水の側で遊んでいた子供達がめいめいに喚声を上げる。透明色の水しぶきは、よく見るとその一つ一つに街や海や空の景色を映しだし、歪み、弾けていく。同じものは一つもない。それぞれが独立したプリズムのように光をねじ曲げ、様々な映像を映し出しては消えていく。
 ただ単にその水しぶきを綺麗だと思うか、その水しぶきに映された風景や人々の表情を綺麗だと思うか、果たしてその違いにどれほどの意味があるのだろう?……あいつはいつだって、そんなことばかり考えている人だった。
「嫌いかい?」
 不意に水しぶきに映った風見鶏が言った。
「嫌いじゃないわ」
 私は吹き出しそうになるのを堪えながら、ベンチの背もたれに腕を回した。
「でも面倒くさい」
「大事を見るか、細事を見るか、要はそう言うことだろう?」
 風見鶏はしたり顔で言う。
「たかだか水しぶきでしょ?そんな大それたことかしら」
「もちろん」
「馬鹿みたい」
 私はもう一度足を組み替えて、緋色に染まった空を見上げた。
「あいつはホントにあなたに似てるわ」
「彼?」
「そう。自由なのに飛ばないの」
「飛べないんだよ。風見鶏だからね」
「臆病なだけでしょ」
「その可能性はあるね」
 透明色の水しぶきの中で、奇妙に姿を歪めながら風見鶏はくくっと笑った。
「あいつは君を選んだ。君が勝手に出て行ったって、君が帰るのをもう何年も一人で待っている。君が大好きだったアールグレイを飲みながらね。まあ、臆病と言えばそうなのかも知れないし、一途と言えばそうなのかも知れない」
 それで?と風見鶏は続けた。
「あの街に戻るのかい?」
「そうね。そのうちそうなるのかもね。私には彼しか居ないもの。それすらあの人は分かってるか怪しいけど」
「きっと分かってるさ」
「どうだか」
 私が肩をすくめると、風見鶏は可笑しそうに錆びた足下をギイギイならし、水しぶきと一緒にぺちんと割れた。

 あれから何年経ったろうと指を折る。ここが幾つ目の街だったのか、あいつに宛てた絵はがきの枚数ももう忘れた。それなのにたかだか数秒の映像だけで、こんなに振り回される私って、相変わらずつくづく人がいい。
 公園からの帰り道、ふと気になって近くにある図書館へと足を伸ばした。英語で書かれた旅行雑誌を数冊開く。るるぶ神戸、みたいな雑誌を手当たり次第に探してみる。あった。これだ。近頃の図書館には何だって揃っている。ご丁寧にも表紙には神戸異人館の特集号と書かれてある。建築年や当時の所有者の名前、職業……当たり前のことだけど、今や神戸有数の観光スポットと化したあの館も、かつては異国人が普通に暮らすためだけに建てられた普通の館だったのだ。風見鶏だって、何も考えずにくるくる回っていればそれで良かったに違いない。


『風見鶏の館』
『1909年にドイツ人貿易商ゴッドフリート・トーマス氏の自邸として建築された』

 ふーんと呟いて本を閉じる。
 氏が今の館の様子を見たならば、それはそれは驚く事だろう。



「回らない風見鶏の話」完

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