くじらを巡る冒険
§5 くじらの唄
ある朝、一年ぶりに彼女から絵はがきが届いた。裏を返すと、そこには雄大なシロナガスクジラが海の底を泳いでいた。目覚めの紅茶をウェッジウッドのカップに半分ほど注ぎ、テラスから長閑な街並みを見おろす。
消印はカナダ・ケベックシティ。
確か、絵本に出てくるような美しい街並みで名高い観光地だ。
クジラとカナダ。
何か関係があるようにも思うけれど、彼女のことだ、きっと何も考えてなどいないに違いない。あるいは、僕には想像もつかない思考回路でも持ち合わせているのだろうか。僕は初夏の風を感じながら、デッキチェアに体を沈め、足を組んだ。
そう言えば最近、大きなクジラが海を泳ぐ姿をよく夢に見る。夢の中で僕はクジラの声を聴く。紺色の海で、淡い燐光を放つ水面を見上げながら、その歌声に抱かれるように海底へと落ちていく。ゆっくりと静かに。
やがてまどろみが訪れる。クジラの姿が遠くに見える。そして目が覚める。風になびくカーテンの中で、クジラの歌声をたぐり寄せようとしても、不思議とそれがどんな声だったのか思い出せないでいる。夢なんて大概そんなものだ。似たような話はいくらでもある。人は何でも知っているようで、実は意外と分かっていない。
「君の事は分かっているよ」
と言う男に限って、本当のところは何も彼女の事を理解していないのと同じことだ。僕がまさにそうだった。
「あなたに私の何が分かってるの?」
そう言って、彼女は僕の部屋を出て行った。
1998年の春――
もう十年も前の事だ。
僕が初めて彼女と出会ったのは、大学の講義室だったように記憶している。彼女はいつも端の席に座り、窓の外を見つめていた。とりたてて美人というわけでもなく、目立つ事もしない。すべてにおいて中庸。ただ一つ僕の目を引いたのは、彼女のスラリと伸びた足首とふともも。
最初に声をかけたのは僕だった。「何を見てるの」と訊ねると、彼女は別に嫌がる風でもなく、かといって笑顔を見せるわけでもなく、「あの海の向こう」と言った。
「あの海の向こうに何が見えるの?」
とは僕は訊ねなかった。
「向こうは晴れてる?」
と目を細めると、「晴れ」と言って彼女は机に頭を横たえた。
いつから付き合いだしたのか、ハッキリとは覚えていない。というか、そもそも僕たちは付き合っていたのかさえ今となってはよく分からない。ただ漠然と、僕が求めれば彼女はベッドで応えてくれたし、彼女にせがまれれば、僕は何度だって彼女と体を重ねた。彼女はよく嘘をついた。誰にでも分かるような小さな嘘。おどけてるのか、天然なのか、でも僕が彼女の嘘に合わせていると、決まって最後に「うそ」と言ってそっぽを向いた。
ある朝彼女は僕の部屋を出て行った。残されていたのは、背中に波紋を漂わせたクジラのマグカップ。ただそれだけだった。
「うそ」
と言って顔を出す彼女の姿を思い描きながら、僕はもう十年もここにいる。
煉瓦造りの街並みにちらほらと見え始めた人々の姿を見下ろしながら、僕はもう一度絵はがきを見た。
「それで、少しは何かが分かるようになったわけ?」
とクジラが言った。
「どうだろうね」
僕はテーブルに肘をつき、冷めてきた紅茶を一口飲んだ。
「少なくとも、君がいなくなったことで僕の周りは静かになったし、こうしてのんびりと紅茶を飲めるようにもなったかな」
「良かったじゃない」
「どうかな」
「どうして?」
「だって、その代償に僕はもう十年も君を抱く事ができないでいる」
「それは残念ね」
「まったくね」
僕が答えると、クジラは大きな尾っぽをぐんと反らし、目一杯の水しぶきを僕に浴びせて海の底に消えた。僕は今年もため息をこぼし、マリンブルーの海だけになった絵はがきを彼女専用のアルバムに閉じた。
これでもう九枚目。毎年毎年、僕は彼女が送りつけてくる何かしらの動物と言葉を交わす。そして考える。もしいつか、彼女からのはがきが届かなくなった時、その時僕は何を思うのだろうか。
僕はすっかり冷めてしまった紅茶を飲み干し、彼女の顔を思い描いた。そして、彼女の住む街を訪れる自分を想像してみる。
彼女はどんな顔をするだろうか?
もしかしたら、彼女は僕を笑顔で歓迎してくれるかも知れない。そしてきっとこう言うのだ。
「それで、少しは何かが分かるようになったわけ?」
僕は何も答えない。十年経った今でも、僕は彼女のことを何一つ分かってなどいないのだから。それでも僕は彼女の街を訪れるのだろうか。僕たちの間には、幾ばくかの時間が必要なのだ。十年という年月が長いのか短いのか、結局のところ僕にはそれが良く分からない。きっとそれは、クジラに聞いても分からないに違いない。
僕の街を見下ろす。街は僕の知らない人々の活気で満ちあふれている。そしてクジラは紺色の深層流に乗って、彼女の街へと泳いでいく。
「くじらの唄」完
消印はカナダ・ケベックシティ。
確か、絵本に出てくるような美しい街並みで名高い観光地だ。
クジラとカナダ。
何か関係があるようにも思うけれど、彼女のことだ、きっと何も考えてなどいないに違いない。あるいは、僕には想像もつかない思考回路でも持ち合わせているのだろうか。僕は初夏の風を感じながら、デッキチェアに体を沈め、足を組んだ。
そう言えば最近、大きなクジラが海を泳ぐ姿をよく夢に見る。夢の中で僕はクジラの声を聴く。紺色の海で、淡い燐光を放つ水面を見上げながら、その歌声に抱かれるように海底へと落ちていく。ゆっくりと静かに。
やがてまどろみが訪れる。クジラの姿が遠くに見える。そして目が覚める。風になびくカーテンの中で、クジラの歌声をたぐり寄せようとしても、不思議とそれがどんな声だったのか思い出せないでいる。夢なんて大概そんなものだ。似たような話はいくらでもある。人は何でも知っているようで、実は意外と分かっていない。
「君の事は分かっているよ」
と言う男に限って、本当のところは何も彼女の事を理解していないのと同じことだ。僕がまさにそうだった。
「あなたに私の何が分かってるの?」
そう言って、彼女は僕の部屋を出て行った。
1998年の春――
もう十年も前の事だ。
僕が初めて彼女と出会ったのは、大学の講義室だったように記憶している。彼女はいつも端の席に座り、窓の外を見つめていた。とりたてて美人というわけでもなく、目立つ事もしない。すべてにおいて中庸。ただ一つ僕の目を引いたのは、彼女のスラリと伸びた足首とふともも。
最初に声をかけたのは僕だった。「何を見てるの」と訊ねると、彼女は別に嫌がる風でもなく、かといって笑顔を見せるわけでもなく、「あの海の向こう」と言った。
「あの海の向こうに何が見えるの?」
とは僕は訊ねなかった。
「向こうは晴れてる?」
と目を細めると、「晴れ」と言って彼女は机に頭を横たえた。
いつから付き合いだしたのか、ハッキリとは覚えていない。というか、そもそも僕たちは付き合っていたのかさえ今となってはよく分からない。ただ漠然と、僕が求めれば彼女はベッドで応えてくれたし、彼女にせがまれれば、僕は何度だって彼女と体を重ねた。彼女はよく嘘をついた。誰にでも分かるような小さな嘘。おどけてるのか、天然なのか、でも僕が彼女の嘘に合わせていると、決まって最後に「うそ」と言ってそっぽを向いた。
ある朝彼女は僕の部屋を出て行った。残されていたのは、背中に波紋を漂わせたクジラのマグカップ。ただそれだけだった。
「うそ」
と言って顔を出す彼女の姿を思い描きながら、僕はもう十年もここにいる。
煉瓦造りの街並みにちらほらと見え始めた人々の姿を見下ろしながら、僕はもう一度絵はがきを見た。
「それで、少しは何かが分かるようになったわけ?」
とクジラが言った。
「どうだろうね」
僕はテーブルに肘をつき、冷めてきた紅茶を一口飲んだ。
「少なくとも、君がいなくなったことで僕の周りは静かになったし、こうしてのんびりと紅茶を飲めるようにもなったかな」
「良かったじゃない」
「どうかな」
「どうして?」
「だって、その代償に僕はもう十年も君を抱く事ができないでいる」
「それは残念ね」
「まったくね」
僕が答えると、クジラは大きな尾っぽをぐんと反らし、目一杯の水しぶきを僕に浴びせて海の底に消えた。僕は今年もため息をこぼし、マリンブルーの海だけになった絵はがきを彼女専用のアルバムに閉じた。
これでもう九枚目。毎年毎年、僕は彼女が送りつけてくる何かしらの動物と言葉を交わす。そして考える。もしいつか、彼女からのはがきが届かなくなった時、その時僕は何を思うのだろうか。
僕はすっかり冷めてしまった紅茶を飲み干し、彼女の顔を思い描いた。そして、彼女の住む街を訪れる自分を想像してみる。
彼女はどんな顔をするだろうか?
もしかしたら、彼女は僕を笑顔で歓迎してくれるかも知れない。そしてきっとこう言うのだ。
「それで、少しは何かが分かるようになったわけ?」
僕は何も答えない。十年経った今でも、僕は彼女のことを何一つ分かってなどいないのだから。それでも僕は彼女の街を訪れるのだろうか。僕たちの間には、幾ばくかの時間が必要なのだ。十年という年月が長いのか短いのか、結局のところ僕にはそれが良く分からない。きっとそれは、クジラに聞いても分からないに違いない。
僕の街を見下ろす。街は僕の知らない人々の活気で満ちあふれている。そしてクジラは紺色の深層流に乗って、彼女の街へと泳いでいく。
「くじらの唄」完