くじらを巡る冒険
§6 結晶
あれはいつのことだったろうか。竹富島の空はどこか独特で、ただじっと見上げるだけで無限の広さと奥深さを味わうことができるんだと友人から聞かされたことがある。だけど、この感覚はその土地の空気を吸った者にしか分からないんだ、とも。
「何て言うのかな、あれは。異次元の音色?異文化の感覚?」
彼女はまるでその世界観を思いだしては楽しむかのように話してくれた。空の話に音色という単語が出てくるあたりが何とも彼女らしい。そう思った記憶がある。
石垣島から高速船で15分。小刻みな振動を感じながら窓の外を眺めていると、まるで無人島のような島陰が近づいてくる。思っていた以上に竹富島は石垣島から近かった。やがて岸に降り立った私は、ディーゼルの焼けた匂いが漂う桟橋の先端に立ち、わざと大袈裟な手振りで大地と海と青空の空気を吸い込んだ。空は少々重たい空気を身にまとい、湿った風を運んでくるようだった。
乗船場から歩くことしばし、私は竹富の中心に向かった。とは言え、郵便局と数件の食事処、それに数件のレンタサイクルの店が並んでいるだけの小さな町だから、ものの十分ほどで着いてしまう。そこで驚かされたのが、観光客の多さと風情ある赤瓦と漆喰でできた家々だった。植物園さながらの南国植物と同化したかのようなその街並みは、私の心をにわかに弾ませてくれた。早速自転車を借り、島を散策してみることにした。竹富の道は主要な道以外には舗装がない。赤土と珊瑚が敷き詰められた道では簡単にハンドルを取られてしまうから、コツを掴むまでに少々手こずった。島の家々はみな低く、塀が高い。台風に備えるためだろうか。それに、土地が十分広いものだから、わざわざ二階建てにする必要もないのだろう。荷車に観光客を乗せ、ゆったりと町を練り廻る水牛たちと何度もすれ違った。小高い丘に建つ展望台――といってもせいぜい二十ほどの石段しかないのだが――の上に立てば、それだけでもう町を一望することができた。足を伸ばし、星砂の海岸に向かう。シャラン、シャランと鳴る波打ち際でひとしきり小さな星の形をした珊瑚を探し、それに飽きると大の字になって空を見上げた。にわかに風がざわめいていた。さっきまでとは違う、独特の重たい空気と風が肌をすり抜ける。見上げる空の色も目に見えて鉛色に変わっていた。いよいよこれは一雨来そうだと感じ、民家のある島の中心まで戻ろうとしたその矢先にスコールにあった。珊瑚の道にハンドルを取られながら、私はなんとか雨をやり過ごせそうな建物を見つけ、大粒の雨に打たれた服を払った。
どのくらい時間が経っただろうか。スコールが上がるまでの間、私は屋根から滴り落ちる雨粒を見つめながら、今いる建物について思いを巡らせた。どうやらそこは小学校のようだった。まだ新しい木造校舎に一面芝生が敷かれたグラウンド、都会ではまず見られない光景に目を疑う。何よりこの学校には校門がなかった。やがて雨が静かに通り過ぎると、校庭の芝生の上に光が差し、まるで島が息を吹き返したかのように雲が途切れ、木々を濡らす雨粒が一斉に太陽の光を浴びて輝きだした。咄嗟に私は自転車に跨り、あの展望台に向かった。雨上がりの展望台に登り、町並みの向こうに見える海に視界を開く。その時ふと、友人の言葉が脳裏をよぎった。ああ確かにここは別世界なのだ。この島にはこの島の時間の流れ方があって、人々の営みがあるのだ。私は大きく息を吸い込んだ。いつも誰かに見守られているような、それでいてまるで窮屈ではない、心地よい開放感が確かにそこにはあった。それはきっと、澄みやかな空の青と、コバルトブルーの珊瑚礁との微かな境界線が作り出す魔法のせいだけじゃないはずだ。
言葉なんかいらなかった。言葉は時として凶器となり、人を深く傷つける。人の側面しか見もしないで、自分の感覚だけで物事を判断し、決めつけ、言葉汚く叩き落とす。感情にまかせてしまうのは簡単なことだ。そうすることで自分は相手より優位に立てると人は錯覚する。だけど、今こうして見えている姿が本当に本質であるかなんて誰にも分からない。分かるはずもない。勝手な都合や感情や思いこみで一方的に塗り固められたフィルタを通して見たものなど、そもそも見えている内にも入らない。違う、私はそんな人間じゃないといくら声を絞り出し、拳を握りしめて叫んでも届かないのなら、自分で見たもの、正しいと思うことを曲げずに貫き通せばいい。きっと、見ている人は見ている。一人じゃない。
彼女が言った「音色」が聞こえたような気がした。私は自転車を店に戻し、来た道をゆっくりと歩き出した。あの日以来、彼女の音色は今でも私の中で生きている。これからもずっと。
「結晶」完
「何て言うのかな、あれは。異次元の音色?異文化の感覚?」
彼女はまるでその世界観を思いだしては楽しむかのように話してくれた。空の話に音色という単語が出てくるあたりが何とも彼女らしい。そう思った記憶がある。
石垣島から高速船で15分。小刻みな振動を感じながら窓の外を眺めていると、まるで無人島のような島陰が近づいてくる。思っていた以上に竹富島は石垣島から近かった。やがて岸に降り立った私は、ディーゼルの焼けた匂いが漂う桟橋の先端に立ち、わざと大袈裟な手振りで大地と海と青空の空気を吸い込んだ。空は少々重たい空気を身にまとい、湿った風を運んでくるようだった。
乗船場から歩くことしばし、私は竹富の中心に向かった。とは言え、郵便局と数件の食事処、それに数件のレンタサイクルの店が並んでいるだけの小さな町だから、ものの十分ほどで着いてしまう。そこで驚かされたのが、観光客の多さと風情ある赤瓦と漆喰でできた家々だった。植物園さながらの南国植物と同化したかのようなその街並みは、私の心をにわかに弾ませてくれた。早速自転車を借り、島を散策してみることにした。竹富の道は主要な道以外には舗装がない。赤土と珊瑚が敷き詰められた道では簡単にハンドルを取られてしまうから、コツを掴むまでに少々手こずった。島の家々はみな低く、塀が高い。台風に備えるためだろうか。それに、土地が十分広いものだから、わざわざ二階建てにする必要もないのだろう。荷車に観光客を乗せ、ゆったりと町を練り廻る水牛たちと何度もすれ違った。小高い丘に建つ展望台――といってもせいぜい二十ほどの石段しかないのだが――の上に立てば、それだけでもう町を一望することができた。足を伸ばし、星砂の海岸に向かう。シャラン、シャランと鳴る波打ち際でひとしきり小さな星の形をした珊瑚を探し、それに飽きると大の字になって空を見上げた。にわかに風がざわめいていた。さっきまでとは違う、独特の重たい空気と風が肌をすり抜ける。見上げる空の色も目に見えて鉛色に変わっていた。いよいよこれは一雨来そうだと感じ、民家のある島の中心まで戻ろうとしたその矢先にスコールにあった。珊瑚の道にハンドルを取られながら、私はなんとか雨をやり過ごせそうな建物を見つけ、大粒の雨に打たれた服を払った。
どのくらい時間が経っただろうか。スコールが上がるまでの間、私は屋根から滴り落ちる雨粒を見つめながら、今いる建物について思いを巡らせた。どうやらそこは小学校のようだった。まだ新しい木造校舎に一面芝生が敷かれたグラウンド、都会ではまず見られない光景に目を疑う。何よりこの学校には校門がなかった。やがて雨が静かに通り過ぎると、校庭の芝生の上に光が差し、まるで島が息を吹き返したかのように雲が途切れ、木々を濡らす雨粒が一斉に太陽の光を浴びて輝きだした。咄嗟に私は自転車に跨り、あの展望台に向かった。雨上がりの展望台に登り、町並みの向こうに見える海に視界を開く。その時ふと、友人の言葉が脳裏をよぎった。ああ確かにここは別世界なのだ。この島にはこの島の時間の流れ方があって、人々の営みがあるのだ。私は大きく息を吸い込んだ。いつも誰かに見守られているような、それでいてまるで窮屈ではない、心地よい開放感が確かにそこにはあった。それはきっと、澄みやかな空の青と、コバルトブルーの珊瑚礁との微かな境界線が作り出す魔法のせいだけじゃないはずだ。
言葉なんかいらなかった。言葉は時として凶器となり、人を深く傷つける。人の側面しか見もしないで、自分の感覚だけで物事を判断し、決めつけ、言葉汚く叩き落とす。感情にまかせてしまうのは簡単なことだ。そうすることで自分は相手より優位に立てると人は錯覚する。だけど、今こうして見えている姿が本当に本質であるかなんて誰にも分からない。分かるはずもない。勝手な都合や感情や思いこみで一方的に塗り固められたフィルタを通して見たものなど、そもそも見えている内にも入らない。違う、私はそんな人間じゃないといくら声を絞り出し、拳を握りしめて叫んでも届かないのなら、自分で見たもの、正しいと思うことを曲げずに貫き通せばいい。きっと、見ている人は見ている。一人じゃない。
彼女が言った「音色」が聞こえたような気がした。私は自転車を店に戻し、来た道をゆっくりと歩き出した。あの日以来、彼女の音色は今でも私の中で生きている。これからもずっと。
「結晶」完