幻桜記妖姫奧乃伝ー花降る里で君と
旦那さんの話によると、首締め幽霊は旦那さんが一旦眠らなければ現れないらしい。
前に寝ないで幽霊が来るのを待っていたことがあるのだが、その日は嘘みたいに穏やかな夜だったと旦那さんは苦笑いした。
それにしてもこの旦那さんは案外強い。
奈帆子にも奥さんにも頭が上がらない様子はなんとも気弱げだが、ふつう、毎夜首を締めに幽霊がやって来るというのにすやすやと眠れるはずがない。
不眠症になってもおかしくないし、いったん何処かへ逃げるという方法を試していてしかるべきだ。
しかし実害は家族の中でダントツにこうむっているにも関わらず、ある意味一番まともだ。
話し合った結果、礼太たちもはじめは隣の部屋で待機して、旦那さんが眠りについたら寝室に移動することとなった。
華澄にどれほど気合が入っていようと、人口密度に圧迫されて旦那さんが眠りにつけなければ霊は現れない。
礼太たちは隣の部屋に入ったが、電気は一番小さな豆電球しかつけなかった。
煌々と灯りをつけていたら、本当に首締め幽霊が生き霊であるなら、気づかれるとも限らない。
礼太が、旦那さんがいつ眠りについたか分かるのかと尋ねるとその点は問題ない、と華澄はうなづいた。
「『使役』を使うから」
「…………ん?ああ…うん」
そうか、使役か、そういやそんなもんいたな、と思い出す。
使役とは退魔師が契約を交わした妖のことだ。
礼太が知る使役は廉姫だけだが、あのお姫さまはかなり特殊なので、数には入らないかも知れない。
華澄と聖はもちろん退魔師なわけで、使役がいてもおかしくはない。
「僕が仕事について来始めてからは一度も使役をつかってないよね」
だから、その存在を頭では分かっていてもはっきりとは認識していなかったのだ。
しかし華澄はいいや、と首を振った。
「朝川中学ではずっとそばにいたよ」
「……そうなの」
これだから一人だけ見えないというのはいけない。
礼太は今まさに旦那さんが眠りにつくのを見守っているであろう使役というものを思い浮かべながら、ソファに持たれかかった。
沈黙がただよう。
会話がなくなれば、あとには痛いほどの静けさしかなかった。
開け放した窓からは夏特有の生ぬるい風が入ってくる。
礼太はふと、隣に座る聖が窓の外をおかしなくらいに凝視していることに気がついた。
薄明かりにぼんやりと浮かびあがる白い顔は不安げだ。
「どうかした?」
小声で尋ねると、聖は視線をずらさぬまま、首を横に振った。
「なんでもないよ。ただ……少しだけ……外が怖い」
礼太も窓の外に目を向けた。
そこに人口の灯りはない。
あるのは星明かり、あとは闇だ。
昨今の日本には真の夜の闇というものがほとんどない。
それは礼太たちが普段暮らしている町も同じだ。
夜の闇は見慣れない。
しかし、礼太にだって弟がただ夜を怖がっているわけではないことはわかっていた。
聖はやはり、屋敷の外に、何か脅威を感じている。
そしてそれが何か分からないから怖がっているのだ。
この山の夜は少しだけ、一度だけ入った当主の居住域の闇に似ていると思った。
あのどこまでもどこまでも続いているような、底知れぬ深さ。
しかし礼太には、弟がその深淵の奥に感じとる何かの存在を同じように感じることはできない。
この先もずっと、聖が怖がっていても泣いていても、背中をさすってやることぐらいしかできないだろう。
「兄貴、聖、旦那さん眠ったって」
礼太はいつのまにか俯けていた顔をハッと上げた。
華澄がうなづく。
「そぉっと入りましょ、そぉっとね」
前に寝ないで幽霊が来るのを待っていたことがあるのだが、その日は嘘みたいに穏やかな夜だったと旦那さんは苦笑いした。
それにしてもこの旦那さんは案外強い。
奈帆子にも奥さんにも頭が上がらない様子はなんとも気弱げだが、ふつう、毎夜首を締めに幽霊がやって来るというのにすやすやと眠れるはずがない。
不眠症になってもおかしくないし、いったん何処かへ逃げるという方法を試していてしかるべきだ。
しかし実害は家族の中でダントツにこうむっているにも関わらず、ある意味一番まともだ。
話し合った結果、礼太たちもはじめは隣の部屋で待機して、旦那さんが眠りについたら寝室に移動することとなった。
華澄にどれほど気合が入っていようと、人口密度に圧迫されて旦那さんが眠りにつけなければ霊は現れない。
礼太たちは隣の部屋に入ったが、電気は一番小さな豆電球しかつけなかった。
煌々と灯りをつけていたら、本当に首締め幽霊が生き霊であるなら、気づかれるとも限らない。
礼太が、旦那さんがいつ眠りについたか分かるのかと尋ねるとその点は問題ない、と華澄はうなづいた。
「『使役』を使うから」
「…………ん?ああ…うん」
そうか、使役か、そういやそんなもんいたな、と思い出す。
使役とは退魔師が契約を交わした妖のことだ。
礼太が知る使役は廉姫だけだが、あのお姫さまはかなり特殊なので、数には入らないかも知れない。
華澄と聖はもちろん退魔師なわけで、使役がいてもおかしくはない。
「僕が仕事について来始めてからは一度も使役をつかってないよね」
だから、その存在を頭では分かっていてもはっきりとは認識していなかったのだ。
しかし華澄はいいや、と首を振った。
「朝川中学ではずっとそばにいたよ」
「……そうなの」
これだから一人だけ見えないというのはいけない。
礼太は今まさに旦那さんが眠りにつくのを見守っているであろう使役というものを思い浮かべながら、ソファに持たれかかった。
沈黙がただよう。
会話がなくなれば、あとには痛いほどの静けさしかなかった。
開け放した窓からは夏特有の生ぬるい風が入ってくる。
礼太はふと、隣に座る聖が窓の外をおかしなくらいに凝視していることに気がついた。
薄明かりにぼんやりと浮かびあがる白い顔は不安げだ。
「どうかした?」
小声で尋ねると、聖は視線をずらさぬまま、首を横に振った。
「なんでもないよ。ただ……少しだけ……外が怖い」
礼太も窓の外に目を向けた。
そこに人口の灯りはない。
あるのは星明かり、あとは闇だ。
昨今の日本には真の夜の闇というものがほとんどない。
それは礼太たちが普段暮らしている町も同じだ。
夜の闇は見慣れない。
しかし、礼太にだって弟がただ夜を怖がっているわけではないことはわかっていた。
聖はやはり、屋敷の外に、何か脅威を感じている。
そしてそれが何か分からないから怖がっているのだ。
この山の夜は少しだけ、一度だけ入った当主の居住域の闇に似ていると思った。
あのどこまでもどこまでも続いているような、底知れぬ深さ。
しかし礼太には、弟がその深淵の奥に感じとる何かの存在を同じように感じることはできない。
この先もずっと、聖が怖がっていても泣いていても、背中をさすってやることぐらいしかできないだろう。
「兄貴、聖、旦那さん眠ったって」
礼太はいつのまにか俯けていた顔をハッと上げた。
華澄がうなづく。
「そぉっと入りましょ、そぉっとね」