幻桜記妖姫奧乃伝ー花降る里で君と
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奈帆子はいつだって、おまけの子だった。
父親も母親も、いつだって兄に夢中だった。
明るくて頭が良くて優しくて絵もうまくて、何もかもが両親の理想を具現化したような兄。
でも奈帆子だって、それなりの愛情を注いでもらってたから、寂しさは心の中に押し込めたままだった。
ある日、兄が死んだ。
突然、死んでしまった。
死んでいる兄を見つけたのは奈帆子だった。
家の外の山を一人で探検していたときのことだ。
すみ慣れた場所だから、山中だってお手のものだった。
兄を見つけた時、奈帆子には始め、それが兄だと分からなかった。
無残に食い散らかされていたから。
兄が死んで皆とても悲しんだ。
奈帆子も悲しんだ。
優しい兄がいなくなってしまって、本当に寂しかった。
でも嬉しくもあった。
これでパパとママはわたしを見てくれる、そう思った。
でもある日、聞いてしまったのだ。
眠れない夜、父と母の部屋に忍び込んだ時のこと。
母が泣いていた。
「隼人……隼人……」
兄の名を呼びながら泣き伏す母と、その背をさする父。
そして母は言った。
どうして隼人なの、奈帆子だったらよかったのに。
なんてことを言うのだと、労わる態度から一転、父は母を怒鳴りつけた。
だって……だって……
呟きながら、母は悲痛に咽び泣き続けた。
その日、奈帆子の心に大きな亀裂が走った。
一生治ることのない傷。
それ以来、奈帆子は母に触れることができなくなった。
身体が母の体温を、息遣いを拒絶した。
それでも恨む気持ちはなかった。
ひたすら、悲しかった。
奈帆子は、父のために絵を描くようになった。
もとは兄がやっていたことだ。
奈帆子の祖父は偉大な画家だったが、父はその才能を受け継がなかった。
父は兄を画家にしたがっていた。
でも兄は死んでしまった。
夢を受け継ごうと思った。
絵を描けば褒めてもらえた。
嬉しかった。
美大を卒業し、それなりに依頼のくる画家となった。
祖父の名が幸いしたのかもしれない。
それでも辻 奈帆子の名は、ほんの少しだけ、この世界で知られることとなったのだ。
しかしそんなことより、父が自分を誇りに思ってくれることが嬉しかった。
兄の呪縛から解き放たれた気がした。
でも……錯覚にすぎなかった。
兄はずっと自分の人生についてまわるのだと気づかされたのは、いつだったか。
ある日、父の同級生がやってきて、奈帆子も同席し、三人で話をした。
話題がふと、死んだ息子の話に移った。
父の同級生の彼もまた、子供をなくしていたのだ。
「子供をうしなってからは、地獄だったなぁ、何もかもどうでも良くなってしまって」
彼がどこか遠い目をしてそう言うと、父もうなづいて言った。
「ああ、隼人さえ生きていてくれれば、あとは何もいらないのにって思うよ」
……何もいらない……?
何もいらないの、お兄ちゃんが生きてさえいれば、わたしのこともいらないの。
父の言葉に、声にならない衝撃を受けた奈帆子がいた。
(奈帆子だったら良かったのに)
幼い日に鼓膜を震わせた母の声が蘇る。
(奈帆子ダッタラヨカッタノニ)
あの子なら、死んでも構わなかったのに……………?
奈帆子の心に、父の言葉を冷静に受け止める余裕はなかった。
十数年前に入った亀裂が音をたてて深部へと食い込んだ。
朝、目覚めるといつも思う。
悪夢の後の焦燥が、疲労が思考を支配する。
何故かじんじんと痛む手のひらを見て、ふと呟かずにはいられない。
「お兄ちゃん、なんで死んじゃったの」