幻桜記妖姫奧乃伝ー花降る里で君と
日が暮れて数時間経っても、暑さが引かない。
テニス部員たちは額にうっすら汗をかきつつ、はしゃぎまくっていた。
畳貼りの武道場に、布団変わりに敷かれたタオルケットは見るも無残にシワが寄り、変な匂いがする枕はくさいくさいと嫌がった一年の手によって「心技体」と書かれた額縁の前に積まれていた。
つまり、誰も寝る気がない。
徹夜すれば明日の練習が辛いことは自明だが、とりあえず、そんなことを気にしている場合ではないのだ。
大人の監視が外れた貴重な時間。
騒がない手はない。
もっとも礼太は高いテンションを維持し続けるのが苦手だ。
人間サンドイッチみたいになっている和田たちの側で、にこにことそれを見物していた。
「おくのぉ、なに一人で安全圏確保してんだ」
首にガッと腕を回されてひっくり返りそうになる。
とっさに手をついて上を見上げれば、案の定、乙間だった。
「たった今、先輩に安全を脅かされてますけど」
笑ってそう言えば、首に回された腕の力がおふざけ程度に強くなった。
「奥乃、ちょっと外出て話さないか」
驚いて再び乙間の顔を見上げれば、見慣れた笑顔がある。
おずおずとうなづくと、腕が首から外された。
「お前さ、部活辞める気だろ」
入り口の石階段に腰掛けると、乙間は唐突に切り出した。
「………はい」
礼太はうなづいた。
あっさりした礼太の反応に乙間が苦笑いする。
「もちょっと、驚けよ」
「だって……きっと皆薄々勘付いてるだろうなって思ってたし……篠宮以外」
「あーまぁな。篠宮以外な」
乙間はそのまま黙りこくった。
礼太も言葉を見つけられず、ぼんやりと空を見上げた。
今夜の空は明るい。
月が宇宙にぽっかりあいた虫食い穴みたいに見えた。
月から溢れ出る光によって、何もかもが侵食されてしまいそうな、何処までも明るい夜。
武道場から漏れる笑い声が、胸に刺さった。
「あと少しだけ、頑張ってみるってゆう選択肢はないわけ」
乙間が、ぽつりと言った。
「………だって…」
だって、の後が続かなかった。
「俺ね、お前の気持ち分かるよ。勿論、完璧にわかるわけじゃないけど、いろんなもんの板ばさみになって、息苦しくなる気持ちはわかる」
礼太はこの時はじめて、乙間に微かな怒りを覚えた。
分かる、などと軽々しく言って欲しくなかった。
何故、分かると断言できるのだ。
乙間にそんな意図がないと知っていても、自分の苦悩をありふれた取るに足りないものだと揶揄された気がした。
たとえ、それが真実だとしても、人間には自分の苦しみや悲しみは誰にも理解されない自分だけのものなのだと思いたい、浸りたい時がある。
そんな、うちに秘めた気持ちすら見透かされた気がして、胸がざわざわした。
「乙間先輩には、分からないです」
未だかつて、尊敬する先輩である乙間に対してこれほど生意気な口を聞いたことはなかった。
乙間は微笑んだだけで、礼太を咎めはしなかった。
「分かるよ」
ただ静かに繰り返した。
「お前にしたらわけわかんないかもしれないけど、分かるんだ。だからさ……部活辞めんのはもう変えられない決定事項だとしても、悩んでることがあったら俺に言え。和田でもいいけどな」
ほんとはそれがいいたかった、と乙間は呟いた。
横顔は、どこか泣きたそうに見えた。
先輩の中に、15歳の少年が透けてみえて、少し戸惑った。
もちろん乙間は事実15歳の少年だが、礼太の目にはそれよりもずっと大きな存在として映っていた。
けして、礼太たちとたった一つしか違わない年端のいかない子どもではなかった。
その彼が、情けなくすら見える顔をしている。
紛れもなく、礼太のせいだった。
「………わかんなく、はないですよ」
礼太を置いて、乙間が一人中に戻って行った後、礼太はぽつりと漏らした。
「わかんなくはないです」
乙間が自分には分かると言った理由が、わからないわけでは、ないのだ。
「……あと少しだけ、頑張る、か」
頑張れるだろうか、自分に。
引退までちょうど一年。
家業と並行してやり遂げる強さと意志が、自分にあるだろうか。
だって、やっぱり、今日という日が名残惜しい。
朝日が登って欲しくない。
自分がテニス部員でなくなる時を迎えたくない。
(もう一度……)
あと少しだけ、ここにいようか。
ほんの少し、退部までの時間を伸ばすだけ。
ダメだと思ったら、また秋が終わる頃に退部届けを出せばいい。
思考の中に逃げ道を残す自分が情けなくはあったが、そこまで決めるとホッと肩の力が抜けた。
テニス部員たちは額にうっすら汗をかきつつ、はしゃぎまくっていた。
畳貼りの武道場に、布団変わりに敷かれたタオルケットは見るも無残にシワが寄り、変な匂いがする枕はくさいくさいと嫌がった一年の手によって「心技体」と書かれた額縁の前に積まれていた。
つまり、誰も寝る気がない。
徹夜すれば明日の練習が辛いことは自明だが、とりあえず、そんなことを気にしている場合ではないのだ。
大人の監視が外れた貴重な時間。
騒がない手はない。
もっとも礼太は高いテンションを維持し続けるのが苦手だ。
人間サンドイッチみたいになっている和田たちの側で、にこにことそれを見物していた。
「おくのぉ、なに一人で安全圏確保してんだ」
首にガッと腕を回されてひっくり返りそうになる。
とっさに手をついて上を見上げれば、案の定、乙間だった。
「たった今、先輩に安全を脅かされてますけど」
笑ってそう言えば、首に回された腕の力がおふざけ程度に強くなった。
「奥乃、ちょっと外出て話さないか」
驚いて再び乙間の顔を見上げれば、見慣れた笑顔がある。
おずおずとうなづくと、腕が首から外された。
「お前さ、部活辞める気だろ」
入り口の石階段に腰掛けると、乙間は唐突に切り出した。
「………はい」
礼太はうなづいた。
あっさりした礼太の反応に乙間が苦笑いする。
「もちょっと、驚けよ」
「だって……きっと皆薄々勘付いてるだろうなって思ってたし……篠宮以外」
「あーまぁな。篠宮以外な」
乙間はそのまま黙りこくった。
礼太も言葉を見つけられず、ぼんやりと空を見上げた。
今夜の空は明るい。
月が宇宙にぽっかりあいた虫食い穴みたいに見えた。
月から溢れ出る光によって、何もかもが侵食されてしまいそうな、何処までも明るい夜。
武道場から漏れる笑い声が、胸に刺さった。
「あと少しだけ、頑張ってみるってゆう選択肢はないわけ」
乙間が、ぽつりと言った。
「………だって…」
だって、の後が続かなかった。
「俺ね、お前の気持ち分かるよ。勿論、完璧にわかるわけじゃないけど、いろんなもんの板ばさみになって、息苦しくなる気持ちはわかる」
礼太はこの時はじめて、乙間に微かな怒りを覚えた。
分かる、などと軽々しく言って欲しくなかった。
何故、分かると断言できるのだ。
乙間にそんな意図がないと知っていても、自分の苦悩をありふれた取るに足りないものだと揶揄された気がした。
たとえ、それが真実だとしても、人間には自分の苦しみや悲しみは誰にも理解されない自分だけのものなのだと思いたい、浸りたい時がある。
そんな、うちに秘めた気持ちすら見透かされた気がして、胸がざわざわした。
「乙間先輩には、分からないです」
未だかつて、尊敬する先輩である乙間に対してこれほど生意気な口を聞いたことはなかった。
乙間は微笑んだだけで、礼太を咎めはしなかった。
「分かるよ」
ただ静かに繰り返した。
「お前にしたらわけわかんないかもしれないけど、分かるんだ。だからさ……部活辞めんのはもう変えられない決定事項だとしても、悩んでることがあったら俺に言え。和田でもいいけどな」
ほんとはそれがいいたかった、と乙間は呟いた。
横顔は、どこか泣きたそうに見えた。
先輩の中に、15歳の少年が透けてみえて、少し戸惑った。
もちろん乙間は事実15歳の少年だが、礼太の目にはそれよりもずっと大きな存在として映っていた。
けして、礼太たちとたった一つしか違わない年端のいかない子どもではなかった。
その彼が、情けなくすら見える顔をしている。
紛れもなく、礼太のせいだった。
「………わかんなく、はないですよ」
礼太を置いて、乙間が一人中に戻って行った後、礼太はぽつりと漏らした。
「わかんなくはないです」
乙間が自分には分かると言った理由が、わからないわけでは、ないのだ。
「……あと少しだけ、頑張る、か」
頑張れるだろうか、自分に。
引退までちょうど一年。
家業と並行してやり遂げる強さと意志が、自分にあるだろうか。
だって、やっぱり、今日という日が名残惜しい。
朝日が登って欲しくない。
自分がテニス部員でなくなる時を迎えたくない。
(もう一度……)
あと少しだけ、ここにいようか。
ほんの少し、退部までの時間を伸ばすだけ。
ダメだと思ったら、また秋が終わる頃に退部届けを出せばいい。
思考の中に逃げ道を残す自分が情けなくはあったが、そこまで決めるとホッと肩の力が抜けた。