幻桜記妖姫奧乃伝ー花降る里で君と
「えっと………」
篠宮は視線をうろうろさせながら、何か縋り付けるものを探しているようだった。
いつもの明るくて奔放な彼との違いように、礼太は少し胸が痛くなる。
篠宮は逡巡した後、覚悟を決めたように、ぎゅっと拳を握りしめた。
「これは、オレの母さんが子どもの頃、実際に起こった出来事です」
冷たい空気が少年たちの頬を撫でた。
古い建物の隙間から流れてくる外気なのか、それとも物語の亀裂から吹き荒ぶ冷気なのか。
「母さんはこの町で生まれて、この町で育ちました。
でも、ある事件がきっかけで一度この町を離れて暮らしていました。
結局、結婚してから戻ってくることになったけれど。
町を離れるきっかけとなったのは、ある人形の存在でした。
母さんの叔父さん、つまりオレからみれば大叔父さんになるんですけど、その人はすごい旅好きの人で、たまに家に帰ってきては、母さんに世界中のお土産を買ってきてくれていたそうです。
そのお土産の中に、その人形はありました。
ビスクドールって云うのかな?
とにかく、お高くって、普通は子どもが持つようなもんじゃない、お金持ちの好事家とかが収集して楽しむような類の陶器人形だったそうです。
母さんのお父さん、つまりオレのじいちゃんなんかは、こんな高価なもの貰えない、と言っていたそうですが、大叔父さんはそんな大したものじゃない、と笑っていたそうです。
なんでも、どこかの国のとある市場で、物凄くお手軽な値段で売られてたんだとか。
オレなんかは、人間の形した人形なんて怖いイメージしかないんですけど、その人形はちっとも怖い感じのない、それはそれは綺麗で可愛い人形で、母さんはすごく大切にしていたそうです。
ふわふわの金髪に青い瞳、真っ白な肌。
皐月、と呼んでいたそうです。
皐月が母さんのもとに来たのが五月だったから。
皐月が家に来てからしばらくは、特に何が起こるでもなく、いつも通りの生活が続いていました。
ところがある日、じいちゃんが母さんを幼稚園に連れていくために部屋に迎えに行くと、話し声が聞こえたそうなんです。
一つは娘の声。
そしてもう一つは、聞いたことのない女の子の声でした。
日本語ではなかったみたいです。
自信はなさげでしたけど、多分、フランス語だろう、とじいちゃんは言ってました。
聞きなれない言語を話す相手に対して、なんとかコミュニケーションをとろうとする娘の声と、外国語を話す女の子の声。
じいちゃんは不思議だったそうです。
娘の部屋にテレビはない。
自分のラジオを部屋に持ち込んでいるのだろうか。
それにしては、ラジオ独特のノイズがない。
恐る恐る部屋のドアを開けると、皐月を腕に抱いた娘がにこにこしていたそうです。
何をしてたんだい
そう尋ねると、母さんはこう答えました。
皐月とお話してたの
じいちゃんは訳が分からないなりに、まだ幼い女の子の言うことだからと、そうかよかったね、とうなづいて母さんを送迎バスまで送り出した後、皐月は電池式の喋る人形なんじゃないかと思っていじってみたんですが、やっぱりそういう仕組みはありそうにない、至って古典的な人形でした。
それからも何度か、外国語を話す女の子の声が母さんの部屋から聞こえてきたそうなんですが、じいちゃんもばあちゃんも、あまり気にしていなかったそうです。
娘が作り声をして遊んでいるのだろうと。
冷静に考えれば、かなり無理があるんですけど、人間そんな簡単に怪奇現象を怪奇現象としては受け止められない……ってじいちゃんが言ってました。
そして、暫くして、気味の悪いことが起こり始めました。
鍵をかけたはずなのに、誰もいない家の窓という窓が開けっぴろげになっていたり、挟んでいたしおりが本から外されていたり、勝手にコンロに火がついたり、時計の針が逆向きに回り始めたり。
本のしおりとか時計の針とかは、嫌といえば嫌ですけど、これといった実害はありません。
でも、誰もいないのに窓が開いていたら泥棒に入られるかもしれないし、コンロを火を吹くなんて、下手したら火事になりかねません。
はじめは娘のいたずらなんじゃないかと、随分母さんを叱ったようなんですけど、どうも違う。
これは娘のいたずらではない。
なにかおかしなことが家で起こっているのだと、じいちゃんとばあちゃんがやっと認めたのは、母さんの部屋からフランス語が聞こえてきてから、5ヶ月後でした。
じいちゃんたちはお祓いの人にお願いして家の中を見てもらい、どうも皐月が怪しいことを伝えました。
母さんの部屋まで案内すると、皐月は母さんのベッドの上で、お澄まし顔で座っていました。
お祓いの人の一人が皐月に触れようとした時、皐月はカッと目を見開きました。
人形の、少し伏せ目がちの瞳がギリギリまで見開かれて、お祓いの人をじいっと睨みつけました。
その時です。
カタカタッカタカタッと皐月が明らかに痙攣し始めました。
やはり、この人形が原因なのだろうと、お祓いの人たちが皐月を持っていきました。
祓ってみます、と言われてじいちゃんたちはそれはそれは安心したようです。
これで一見落着だ。
帰ってみたら家がなくなってるんじゃないかと心配しなくていい。
その日の夜のことです。
娘を寝かしつけるために、いつものようにばあちゃんは二階の母さんの部屋まで言って絵本の読みきかせをしていました。
娘がうとうとし始めて、そろそろ切り上げようかと思った時でした。
突然、娘がカッと目を見開いて、宙を睨みつけました。
いったいどうしたのかとばあちゃんが話しかけようとすると、母さんはカタカタッと痙攣を起こし始めました。
まるで、昼間の皐月みたいに。
ばあちゃんは大慌てで夜間病院に連れて行こうとしたんですが、じいちゃんが母さんを担いで家の外に出た途端、母さんの痙攣はピタッと止みました。
一応、病院には連れていったんですが、至って正常。
特になんの処置もなく帰されました。」
篠宮は視線をうろうろさせながら、何か縋り付けるものを探しているようだった。
いつもの明るくて奔放な彼との違いように、礼太は少し胸が痛くなる。
篠宮は逡巡した後、覚悟を決めたように、ぎゅっと拳を握りしめた。
「これは、オレの母さんが子どもの頃、実際に起こった出来事です」
冷たい空気が少年たちの頬を撫でた。
古い建物の隙間から流れてくる外気なのか、それとも物語の亀裂から吹き荒ぶ冷気なのか。
「母さんはこの町で生まれて、この町で育ちました。
でも、ある事件がきっかけで一度この町を離れて暮らしていました。
結局、結婚してから戻ってくることになったけれど。
町を離れるきっかけとなったのは、ある人形の存在でした。
母さんの叔父さん、つまりオレからみれば大叔父さんになるんですけど、その人はすごい旅好きの人で、たまに家に帰ってきては、母さんに世界中のお土産を買ってきてくれていたそうです。
そのお土産の中に、その人形はありました。
ビスクドールって云うのかな?
とにかく、お高くって、普通は子どもが持つようなもんじゃない、お金持ちの好事家とかが収集して楽しむような類の陶器人形だったそうです。
母さんのお父さん、つまりオレのじいちゃんなんかは、こんな高価なもの貰えない、と言っていたそうですが、大叔父さんはそんな大したものじゃない、と笑っていたそうです。
なんでも、どこかの国のとある市場で、物凄くお手軽な値段で売られてたんだとか。
オレなんかは、人間の形した人形なんて怖いイメージしかないんですけど、その人形はちっとも怖い感じのない、それはそれは綺麗で可愛い人形で、母さんはすごく大切にしていたそうです。
ふわふわの金髪に青い瞳、真っ白な肌。
皐月、と呼んでいたそうです。
皐月が母さんのもとに来たのが五月だったから。
皐月が家に来てからしばらくは、特に何が起こるでもなく、いつも通りの生活が続いていました。
ところがある日、じいちゃんが母さんを幼稚園に連れていくために部屋に迎えに行くと、話し声が聞こえたそうなんです。
一つは娘の声。
そしてもう一つは、聞いたことのない女の子の声でした。
日本語ではなかったみたいです。
自信はなさげでしたけど、多分、フランス語だろう、とじいちゃんは言ってました。
聞きなれない言語を話す相手に対して、なんとかコミュニケーションをとろうとする娘の声と、外国語を話す女の子の声。
じいちゃんは不思議だったそうです。
娘の部屋にテレビはない。
自分のラジオを部屋に持ち込んでいるのだろうか。
それにしては、ラジオ独特のノイズがない。
恐る恐る部屋のドアを開けると、皐月を腕に抱いた娘がにこにこしていたそうです。
何をしてたんだい
そう尋ねると、母さんはこう答えました。
皐月とお話してたの
じいちゃんは訳が分からないなりに、まだ幼い女の子の言うことだからと、そうかよかったね、とうなづいて母さんを送迎バスまで送り出した後、皐月は電池式の喋る人形なんじゃないかと思っていじってみたんですが、やっぱりそういう仕組みはありそうにない、至って古典的な人形でした。
それからも何度か、外国語を話す女の子の声が母さんの部屋から聞こえてきたそうなんですが、じいちゃんもばあちゃんも、あまり気にしていなかったそうです。
娘が作り声をして遊んでいるのだろうと。
冷静に考えれば、かなり無理があるんですけど、人間そんな簡単に怪奇現象を怪奇現象としては受け止められない……ってじいちゃんが言ってました。
そして、暫くして、気味の悪いことが起こり始めました。
鍵をかけたはずなのに、誰もいない家の窓という窓が開けっぴろげになっていたり、挟んでいたしおりが本から外されていたり、勝手にコンロに火がついたり、時計の針が逆向きに回り始めたり。
本のしおりとか時計の針とかは、嫌といえば嫌ですけど、これといった実害はありません。
でも、誰もいないのに窓が開いていたら泥棒に入られるかもしれないし、コンロを火を吹くなんて、下手したら火事になりかねません。
はじめは娘のいたずらなんじゃないかと、随分母さんを叱ったようなんですけど、どうも違う。
これは娘のいたずらではない。
なにかおかしなことが家で起こっているのだと、じいちゃんとばあちゃんがやっと認めたのは、母さんの部屋からフランス語が聞こえてきてから、5ヶ月後でした。
じいちゃんたちはお祓いの人にお願いして家の中を見てもらい、どうも皐月が怪しいことを伝えました。
母さんの部屋まで案内すると、皐月は母さんのベッドの上で、お澄まし顔で座っていました。
お祓いの人の一人が皐月に触れようとした時、皐月はカッと目を見開きました。
人形の、少し伏せ目がちの瞳がギリギリまで見開かれて、お祓いの人をじいっと睨みつけました。
その時です。
カタカタッカタカタッと皐月が明らかに痙攣し始めました。
やはり、この人形が原因なのだろうと、お祓いの人たちが皐月を持っていきました。
祓ってみます、と言われてじいちゃんたちはそれはそれは安心したようです。
これで一見落着だ。
帰ってみたら家がなくなってるんじゃないかと心配しなくていい。
その日の夜のことです。
娘を寝かしつけるために、いつものようにばあちゃんは二階の母さんの部屋まで言って絵本の読みきかせをしていました。
娘がうとうとし始めて、そろそろ切り上げようかと思った時でした。
突然、娘がカッと目を見開いて、宙を睨みつけました。
いったいどうしたのかとばあちゃんが話しかけようとすると、母さんはカタカタッと痙攣を起こし始めました。
まるで、昼間の皐月みたいに。
ばあちゃんは大慌てで夜間病院に連れて行こうとしたんですが、じいちゃんが母さんを担いで家の外に出た途端、母さんの痙攣はピタッと止みました。
一応、病院には連れていったんですが、至って正常。
特になんの処置もなく帰されました。」