幻桜記妖姫奧乃伝ー花降る里で君と
いくら足を動かしても汗をかくことはなかった。


時折吹く風はひんやりとしていて、礼太の身体の熱を奪ってゆく。


道はなだらかだった。


だいぶ上に登ってきたのか、下の町の喧騒は感じられない。


緑は穏やかでのみこまれてしまいそうに深かったが、道からそれなければ恐れることはなかった。


礼太は学ランを着た自分がひどく場違いに思えて、おかしくなった。


自分は何をしているのだろう。


勢いに任せてここまできたが、後先のことを全く考えていなかった。


今ごろ、教室で担任が出席をとり、連絡が入っていないのに礼太の席が空いていることに顔をしかめていることだろう。


学校からの電話を取るのは母で、おそらく誰よりも心配するはずだ。


母さん、とため息のように口から零れる。


母はこの一ヶ月、どう接していいか分からないなりに礼太に接してくれた。


つまりは、何一つ態度をかえずに、何も聞かずにいてくれた。


それを傍観に徹していると捉えることも出来たが、礼太には有難かった。


礼太はむやみに学校をサボったことを少し後悔した。


しかし、今更舞い戻るのも、なんだか腹立たしい。


今朝の華女と父のことを思えば、あの頭が煮え立つような感覚が戻ってくる。


あれほど言い争っていたというのに、自分に都合がいいときだけ結託するのだ。


結局引き返さぬまま、礼太は山を登り続けた。


「……あれ?」


目の前に、先ほど見たのと似たような、三人地蔵が現れる。


一様に赤い前掛けをして愛嬌のある微笑みを浮かべており、真ん中のお地蔵さまだけ少し小さい。


礼太は首を傾げながらも歩き続けた。


しばらくすると、また三体のお地蔵さまが見えた。


少し怖くなったが、三体ずつ何メートルかおきに置いているのだろうと納得して、また前に進んだ。


四回目のお地蔵さまが見えたとき、礼太は周りの風景も確認した。


間違いなく、同じ場所をぐるぐるまわっていた。


おかしい。


そんなはずはないのに。


なだらかではあるが、確かに傾斜があり、下りはない。


同じところをまわれる筈はないのだ。


礼太は顔を引きつらせた。


恐怖を押し切るように、早足で前に進む。


普段の礼太なら早急に回れ右して山を下っていっただろう。


しかしこの日の礼太は冷静ではなかったし、いつもより気がたっていた。


六回目がくると、怖いよりも腹立たしいが勝ってくる。


何なんだ、皆して僕をおちょくっているのか。


僕は頂上に行きたいのに。


いつの間にか礼太の目標は頂上にたどり着くことになっていた。


負けまいと必死に足を動かすが、山は礼太をあざ笑うようにただ同じ風景を見せるだけだった。


七回目の地蔵は、すっかり愛らしいなりを潜めて礼太に向かってにやにやしていた。


もちろん、礼太の目が見せた錯覚だったが、かぁーっと頭に血が登りきり、罰当たりなことにお地蔵さまに向かって叫んでいた。


「いい加減にしろっ、僕は頂上に行くんだよ、さっさと道を明け渡せ‼」


木々のざわめきがやんだ。


鳥の鳴き声も聴こえなくなる。


山の中のすべてが、怒りくるう少年の存在に耳をそばだてているようだった。


はぁはぁと肩をいからせ、今の自分がいかに間抜けであるかに思い至った礼太は、頬を紅潮させ、地蔵の前を通り過ぎて行った。


次に地蔵が来たら、もと来た道を引き返そうと決め、先ほどまでの熱意を失ってとぼとぼ歩いていた礼太だったが、八度目のお地蔵さまは来なかった。


急に目の前が開け、ふわりと甘やかな香りが鼻腔をくすぐった。


「……んっ」


空を遮る木々が無くなり、眩しさに目を瞑った。


まぶたの奥で少しずつ光に慣れて、再びゆっくりと目を開いた礼太は、思わず息をのんだ。


木々がよけるようにしてぽっかり空いた空間には、一本の桜の大樹が咲き誇っていた。


はらはらと宙を舞う花びらは青い空の光に包まれ、焦がれる者を弄ぶように消え去る。


しかし地面には桜色が一面に敷きつめられ、やわらかな気配を放っていた。


まるでお伽話の世界に迷いこんだような美しくて儚い光景が、礼太を包みこむ。


ぽろり、と涙が頬を伝った。
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