幻桜記妖姫奧乃伝ー花降る里で君と
夏休み初日の朝。
依頼主のもとへ礼太たちを運ぶ電車の中は拍子抜けするほど空いていた。
流れゆく景色は少しずつ田舎の色を濃くしていく。
礼太たちの住む街も大概田舎だが、今回の依頼主の家がある場所はそんなの問題にならないくらいの奥地らしい。
「兄さん、手ェ出して」
四人スペースの向かい側に座る聖がにこにこしながらチョコ菓子の小箱を傾けてくる。
素直に手を出すと、三粒ばかりぽろぽろと落ちてきた。
「ありがと」
にこっと微笑みかえして三粒いっぺんに口に放り込む。
「姉さんは?」
聖の隣に気だるげに座っていた華澄はハッと目が覚めたように飛び上がって、
「う、うん。いるいる」
と手を差し出した。
隣のスペースに座っている女子高生の四人組がチラチラとこちらを見ている。
どうやら聖に興味があるらしい。
「あの子、可愛い」と小さく囁く声が聴こえた。
華澄と聖は慣れたものなのか、まったく気にならないようだ。
今日から数日、礼太たちは依頼主の家に泊まりがけることになっている。
礼太初の遠出。
希皿流に言うなら出張だ。
聖は朝から楽しげだ。
夏休みがはじまって嬉しいらしい。
加えて仕事とはいえ兄と姉との電車旅に浮き立っているようだ。
対照的にぼんやりしているのが華澄だ。
はじめての遠出よ、しっかりしてよね、とかなんとか言われるかと思っていたのだが、今のところ何も言われていない。
礼太もまた、華澄同様ぼんやりとしていた。
楽しげな弟に付き合うのも、聖には申し訳ないが今は少し億劫だ。
三日前、夏休みが終わったら退部届けを出すことを、和田 橘に伝えた。
ずっと心配してくれていた和田には、真っ先に言うべきであろうと思ったのだ。
和田の反応は思った通りだった。
まず途方に暮れたような顔になり、何でだよ、どうしてだよ俺か俺のせいか、と問いただし、次いで怒ったような顔をして逃げんのかよめんどくさくなったのかよ、と迫り、最後には半泣きになってとぼとぼ礼太のもとを去って行った。
以来三日間、和田とは口をきいていない。
覚悟はしていたつもりで、まったく出来ていなかったのだと思い知らされた。
和田の存在は礼太の中で、礼太が思っていた以上に大きくなっていたらしい。
思えば、小中通してあれほど気兼ねしない友人はいなかった。
部活を辞めるという決断を後悔しかけた。
しかし、礼太の中でこれは決定事項で、もはや覆りそうにはなかった。
次期当主に選ばれる前は、部活が好きだった。
少なくとも、土曜日に休まなければならないのが嫌なくらいには。
しかし今の礼太は、部活が好きだという気持ちより部活を辞めたいという気持ちの方が勝っていた。
和田の言うとおり。
礼太は逃げるのだ。
「兄さん姉さん、見て、花畑だよ!」
聖の声にゆっくりと顔を車窓の方に向けると、なるほど、聖が感嘆の声をあげるのも納得の美しい光景が広がっていた。
黄色い蝶が何千万も舞い降りたように、そよそよと黄金の花畑が揺らめく。
ガラス越しに見るその美しさは広大だが、どこか遠い。
それはちょうど、幻桜の存在がどれほど身近に思えても、あの大樹が現実に存在するわけではない、という切ない酩酊感に似ていた。