涙の跡を辿りて
■ケセの章1・邂逅
 クーセル村から徒歩で一時間程離れた距離の場所に、ケセの家はあった。しかし、その一時間というのは天気の良い、今のような冬以外の季節の事である。
 霊山シンシンリー。
 その山は、高く、険しく、美しく、神秘的である故に、神住まりの山、霊山として讃えられ、麓に広がる大地に扇状の村を形成した。それがクーセル村である。
 そこから少し行った所から樹海が広がる。ケセの家は樹海の入り口にあった。
 クーセル村の人間は、決して立ち入らない。豊かな森であるというのに。
 その森は『精霊の樹海』と呼ばれていた。
 一度迷い込んだら、二度とは出て来られないのだよ。
 人々が口伝えで伝える神秘。
 だがケセは恐れない。ケセに恐れるものがあるとすればそれは人間であり精霊ではない。
 ケセは『精霊の樹海』にもシンシンリーにも平気で足を向ける。そして、自然の豊かな恵みに感謝して、果物や、時には鳥、兎などの肉を持ち帰る。
 精霊に感謝の言葉を忘れずに。
 クーセル村の人間はその事を知っているのか知らないのか、ケセには窺いしれなかった。
 時折、日用品を買いに行く以外、ケセはクーセル村には足を向けなかったからである。
 ケセの生い立ちを知る者達は彼を『恩知らず!』と罵る。
 だが、ケセはケセなりに恩を返しているつもりだった。そんなケセに、人々は何処までも強欲だった。
 ケセの手は骨ばっていた。爪は短く切りそろえられ、普段であれば清潔であったがコンテの粉が悪戯をしている今、不潔というよりかは鮮やかに見えた。
 ケセはその日、溜息を吐きながら雪名残草(ゆきなごりそう)の模写をしていた。
 楽しいような楽しくないような複雑な気分。
 美しい花を見ても、いつものようには心が浮き立たない。
 それでもその手が止まることはなかった。琥珀の瞳は愛する人を見つめるように真剣に見開かれ、瞬くことすら忘れたよう。その瞳を縁取る長い金のまつ毛は微かに震えていた。
 風が、ケセの邪魔をしない程度に吹く。金茶色の髪を愛撫する。
 彼は一冊の絵本を作る事になっていた。
 村長のルービックの家に身を寄せている地方貴族の令嬢の為に。
 正直、気の乗らない仕事であった。
 ルービックが絡んでいるが故に憂鬱だった。
 だが、断る事の出来ない仕事だった。
 ルービックの言葉に、ケセは逆らう事が出来ない。未だに。
 ケセは新進気鋭の絵本作家であり、童話作家であった。それはその道の大家アイゼックの認めるところでもある。なぜならケセの才能を発掘したのは他ならぬアイゼックその人であったから。
 アイゼックがいなかったらどうなっていただろう? そう思うとケセの背中を生暖かい汗が伝う。
 自分で稼ぐ道も見つけられず、永遠に奴隷であったに違いない
 雪の下で、雪を持ち上げるようにして咲く花。雪名残草。それをケセのようだといったのはアイゼックだった。
 雪名残草は美しい。
 別名、口づけ草。
 真っ白な花弁に赤が散る故だ。その赤を口紅だと想像したこの国の人間はロマンチストだとケセは思う。そうして、ケセは苦笑する。
 自分もそのロマンチストなのだ。
 雪名残草の赤を血の赤だと捉える国もあるそうだが、ケセにはこんな綺麗な血は想像できない。
 血はもっと、残酷なものだ。
 そして醜悪なものだ。
 ケセがそう思うのには理由がある。
 昔、酷く鞭打たれ長靴での蹴りをくらい、血を流す夜が続いたからだ。ケセに血を流させた者達は、その血の後始末もケセに命じた。
 今、ケセを鞭打つものは誰もいない。
 だが、傷は傷として残る。
 決して消えないもの。
 ふわふわと、雪が舞い始めた。
「帰ろうか」
 誰に聞かせる訳でもなく、ケセは呟いた。
 だが、シンシンリーは聴いている。
 山の天候は変わりやすい。ケセはしっかりとスケッチブックとコンテを入れたリュックサックを背負った。
「有難う、シンシンリー。帰ります」
 深々と、ケセは頭を下げる。シンシンリーとシンシンリーの総ての精霊達に。
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