涙の跡を辿りて
ケセの章4・秋~想いの豊穣~
幸せというものに色がついているとするのなら秋の夕日のような、蜂蜜色の黄昏のような、きっとそんな色なのだとケセは思う。
秋の夕暮れよりほんの少し早い時間、ケセは一人で『精霊の樹海』に行く事が増えた。
仕事の邪魔をしてはいけないと、ヒトカは知っている。仕事が、ケセにとってどれ程大切なものなのかをヒトカは知っている。
ヒトカはケセを愛しているが、だからこそケセの自由を尊重しなくてはならない事を知っていた。大丈夫。ケセはきっと戻ってくる。
宵闇の頃、戻ってくるケセの為に美味しいご飯を作らねばとヒトカは台所に立った。
ケセは、今度は一体、どんな作品と相対しているのだろう?
ケセが二階で作業していないという事はきっと絵本を作っているのだ。
絵本。その色彩の妙。
それは精霊の女王ですら溜息を吐かせる程のもの。全くの奇蹟であり、そしてこれからも成長していくであるだろうケセの無限の可能性。
ヒトカは楽しみに思いながら皮付きのジャガイモをオリーブオイルで揚げた。もうすぐ帰ってくるであろう愛しい人の為に。
時折、ほんの少し不安にならなくも無い。
ケセが仕事だと偽って可愛い女の子の手を握っているのではないかとか。
そして女王の言葉。
『さいご』とはどういう意味だろう?
自分が完全に精霊でなくなる前に女王自らがこの命の緒を切るという意味であろうか?
一度覚えだすと不安というものは際限なく心に広がる。蝕まれる。
「ケセ……」
口に出し、呼んでみる。帰ってきて、早く。
その日のジャガイモは、焦げていた。
飴色の夕日が作る影。
この時間の森は歌っているようだとケセは思う。
精霊が歌っているのかもしれなかった。住んでいる動物が歌っているのかもしれなかった。植物が歌っているのかも知れなかった。そして、もしかしたら総ての命が歌っているのかも知れなかった。
只の人の身であるケセには、解らない事だらけだ。だけれども。
世界は美しく。
そこに生きているというだけでも幸せであるとケセは思う。
そしてケセには身体中で感じることが出来た。その恵みを。
画用紙の束を薄い木の板で挟んで、折れ曲がるのを防止し、そしてリュックサックに入れる。色鉛筆をしまうと背伸びをした。
今日はもう帰ろう。
「森に宿る命のすべてに。帰ります」
ケセはそういうと頭を下げた。いつもと全く同じ動作。だが、彼は形式で礼をするのではない。
誰がこの豊かな自然に礼を言えと教えたのかケセは知らなかった。だが、このように自然に礼を失さなければ『精霊の樹海』も、そしてシンシンリーでさえ、恐れる事はないのだと教えられた気がするのだ。誰かに。
誰だろう、と、ケセはもう考えない。頭痛を覚えるだけだと、解っているから。
しかし、帰るのにも足が弾む。ヒトカが待っている家に帰るのだと思うと、嬉しくて仕方ない。
不思議な気分だった。画用紙に向かっている間は総て忘れ去っているのだけれども。
このまま、総ての感情がヒトカだけにしか向かなくなったらどうしよう?
総てをヒトカに支配されたらどうしよう?
それはひどく甘い気分のような気がした。だけれども、同時に解っていた。
自身の在り様を失えば、あの美しい精霊は自分を捨ててゆくだろう。母なる山に帰るであろう。そう、ケセから創作意欲を取り除いたものに魅力を感じるものは誰も居ないのだ。
ヒトカ……吃驚するだろうな。
ケセはそう思うと、自然と笑顔になる。
明日で完成する筈だった。
絵は描いた。表紙も作った。
後はロトの手に渡さず、自分で製本するだけだ。知識はある。大丈夫。出来る。
自分以外の誰の手もかかっていないものを、ケセはヒトカに贈りたかった。
字が読めないヒトカの為、必死で作った絵本。絵だけで状況が解るように描くのはかなり困難であった。
だが、出来た。
簡単な本。
『恋の歌』。そう名付けた。
恥ずかしい題名の絵本だった。
だが、愛しい我が子だった。
難しい事は何も書いていない。
精霊と出会って、恋に落ちた。そして二人で見つめるのだ。春夏秋冬を何度も何十度も。
最初、人である者の方を、最終的には老いの為に殺してしまうおうかとケセは考えた。だけれども、それでは残酷に過ぎる。
だから、最後の見開きには、硬く、ごつごつして皺が寄り、粉をふいた老人の手と、年を感じさせない精霊の手が、締まりあった絵が描かれている。
ケセは思う。
老人になっても、ヒトカと居たいと。
精霊であるヒトカに老いは来ないであろう。
だから『恋の歌』という絵本はこうあれたら幸せだなとケセが思う未来の姿でもあった。
皺だらけの老人になっても、ヒトカ、君は『ケセ、愛してル』と、そう言ってくれるだろうか。
精霊は気紛れなものだ。そして驚くべく長寿。
ケセがいくら思っても言葉を重ねても瞬きのごとくの間の事。
だから確実に残るものにしようとした。そしてケセは絵本作家だ。
完成させてみせる。明日こそは。
秋の夕暮れよりほんの少し早い時間、ケセは一人で『精霊の樹海』に行く事が増えた。
仕事の邪魔をしてはいけないと、ヒトカは知っている。仕事が、ケセにとってどれ程大切なものなのかをヒトカは知っている。
ヒトカはケセを愛しているが、だからこそケセの自由を尊重しなくてはならない事を知っていた。大丈夫。ケセはきっと戻ってくる。
宵闇の頃、戻ってくるケセの為に美味しいご飯を作らねばとヒトカは台所に立った。
ケセは、今度は一体、どんな作品と相対しているのだろう?
ケセが二階で作業していないという事はきっと絵本を作っているのだ。
絵本。その色彩の妙。
それは精霊の女王ですら溜息を吐かせる程のもの。全くの奇蹟であり、そしてこれからも成長していくであるだろうケセの無限の可能性。
ヒトカは楽しみに思いながら皮付きのジャガイモをオリーブオイルで揚げた。もうすぐ帰ってくるであろう愛しい人の為に。
時折、ほんの少し不安にならなくも無い。
ケセが仕事だと偽って可愛い女の子の手を握っているのではないかとか。
そして女王の言葉。
『さいご』とはどういう意味だろう?
自分が完全に精霊でなくなる前に女王自らがこの命の緒を切るという意味であろうか?
一度覚えだすと不安というものは際限なく心に広がる。蝕まれる。
「ケセ……」
口に出し、呼んでみる。帰ってきて、早く。
その日のジャガイモは、焦げていた。
飴色の夕日が作る影。
この時間の森は歌っているようだとケセは思う。
精霊が歌っているのかもしれなかった。住んでいる動物が歌っているのかもしれなかった。植物が歌っているのかも知れなかった。そして、もしかしたら総ての命が歌っているのかも知れなかった。
只の人の身であるケセには、解らない事だらけだ。だけれども。
世界は美しく。
そこに生きているというだけでも幸せであるとケセは思う。
そしてケセには身体中で感じることが出来た。その恵みを。
画用紙の束を薄い木の板で挟んで、折れ曲がるのを防止し、そしてリュックサックに入れる。色鉛筆をしまうと背伸びをした。
今日はもう帰ろう。
「森に宿る命のすべてに。帰ります」
ケセはそういうと頭を下げた。いつもと全く同じ動作。だが、彼は形式で礼をするのではない。
誰がこの豊かな自然に礼を言えと教えたのかケセは知らなかった。だが、このように自然に礼を失さなければ『精霊の樹海』も、そしてシンシンリーでさえ、恐れる事はないのだと教えられた気がするのだ。誰かに。
誰だろう、と、ケセはもう考えない。頭痛を覚えるだけだと、解っているから。
しかし、帰るのにも足が弾む。ヒトカが待っている家に帰るのだと思うと、嬉しくて仕方ない。
不思議な気分だった。画用紙に向かっている間は総て忘れ去っているのだけれども。
このまま、総ての感情がヒトカだけにしか向かなくなったらどうしよう?
総てをヒトカに支配されたらどうしよう?
それはひどく甘い気分のような気がした。だけれども、同時に解っていた。
自身の在り様を失えば、あの美しい精霊は自分を捨ててゆくだろう。母なる山に帰るであろう。そう、ケセから創作意欲を取り除いたものに魅力を感じるものは誰も居ないのだ。
ヒトカ……吃驚するだろうな。
ケセはそう思うと、自然と笑顔になる。
明日で完成する筈だった。
絵は描いた。表紙も作った。
後はロトの手に渡さず、自分で製本するだけだ。知識はある。大丈夫。出来る。
自分以外の誰の手もかかっていないものを、ケセはヒトカに贈りたかった。
字が読めないヒトカの為、必死で作った絵本。絵だけで状況が解るように描くのはかなり困難であった。
だが、出来た。
簡単な本。
『恋の歌』。そう名付けた。
恥ずかしい題名の絵本だった。
だが、愛しい我が子だった。
難しい事は何も書いていない。
精霊と出会って、恋に落ちた。そして二人で見つめるのだ。春夏秋冬を何度も何十度も。
最初、人である者の方を、最終的には老いの為に殺してしまうおうかとケセは考えた。だけれども、それでは残酷に過ぎる。
だから、最後の見開きには、硬く、ごつごつして皺が寄り、粉をふいた老人の手と、年を感じさせない精霊の手が、締まりあった絵が描かれている。
ケセは思う。
老人になっても、ヒトカと居たいと。
精霊であるヒトカに老いは来ないであろう。
だから『恋の歌』という絵本はこうあれたら幸せだなとケセが思う未来の姿でもあった。
皺だらけの老人になっても、ヒトカ、君は『ケセ、愛してル』と、そう言ってくれるだろうか。
精霊は気紛れなものだ。そして驚くべく長寿。
ケセがいくら思っても言葉を重ねても瞬きのごとくの間の事。
だから確実に残るものにしようとした。そしてケセは絵本作家だ。
完成させてみせる。明日こそは。