涙の跡を辿りて
体が重い。酷い倦怠感が身体を包む。痛みも何も無いのに起きられないというのはどういう事だ? ああ、またルービックに殴られる。
それがあの男の楽しみなのだ。
怠けていると言われるだろう。だが、ルービックはケセが何をしていても難癖をつける。
今日はどんな風に殴られるのだろう? 腹か、背中か、太腿かもしれなかった。とにかく顔だけは殴られない。村長のルービックは外面が良い。ケセが毎朝毎晩殴られている事を知っているのはルービックの家族だけだ。
ケセはルービック夫人からも疎まれている。
村で最も優しい女性と噂される女性からも。
それはルービックがケセを殴る時、彼が性的興奮を覚えているからだ。そしてそのまま、その欲望をケセの身体で発散する。ケセはだから、牛乳が嫌いだ。
起きても起きなくとも殴られるなら、眠ってしまえ、と、ケセは思った。
だが、その時、不意に唇に何かが触れたのである。
ケセは驚いた。
一気に現実に引き戻される。
何故、あんな錯覚を?
僕はもうあんな幼い子供ではない。
二十一になって、一人で暮らしていて、打たれる事も辱められる事もない。
ルービック村長と共に暮らしていたのは自分が七歳から十六歳の時までだ。
あんな昔話。もう、今では忘れようとしているのに。
唇に触れる感触。
もう、何年も知らなかった感触だった。
熱く。
乾いて。
柔らかく。
だけれどもどうだろう?
ケセの記憶の中では嫌悪する感触であったのに、今のこれはとても心地良かった。
無粋な舌がケセの唇を割って入ってくる事はない。
ケセはやがてゆっくりと目を開けた。
その途端、口づけをケセに与えていたモノは慌てて顔を上げようとしケセはそのま、そのモノのの頭を咄嗟に両腕で押さえつけていた。
絡み合う視線。
琥珀と深緑。
さっきまでだるくて起き上がれなかった人間とは思えない早さで反応したケセだったが、自分に口付けを与えていたモノを見ると、すっきりと目が覚めた。
その子はまだ人間的外貌で言うなら十四、十五の華奢な子供だった。
だが、ケセが両腕で押さえている頭に生えている髪の毛の色は不可思議としか言いようがない。
黒に限りなく近い、深緑と焦げ茶色。
人にあらざる色彩の意味をケセは正しく理解していた。
男でも女でもない、シンシンリーの奇蹟。
「あなたは、精霊なんだね」
精霊は笑った。優しい笑顔だった。
「ヒトカ」
精霊は言う。
「ヒトカ?」
ケセは困ってしまう。精霊は、人の言葉を喋らないのだろうか?
精霊の言葉などケセにわかる筈もなく。
「ヒトカ」
その精霊は自分の胸に手を置いて、もう一度言い、ケセの顔を覗き込む。
「それが……あなたの名前?」
その存在は満面の笑みで頷く。精霊、ヒトカと、再び唇が触れ合いそうになる。
だが、すぐにヒトカは頭を上げた。不可思議な色の髪の毛がさらさらと揺れる。
「助けてくれたんだよね? 有難う、……ヒトカ」
ケセは迷った挙句、敬語も尊称も使わずに、ヒトカに喋りかけた。それが『正しい』事のような気がしたのだ。
ヒトカはまた笑った。
その笑みを、木漏れ日が鮮やかに彩る。
ああ、綺麗だ。
ケセは溜息を吐いた。
なんて綺麗な子なのだろう!
精霊とは、何と美しいものなのだろう!!
ヒトカを見ていると、ケセの胸がうずく。
それは初めて精霊をその目にした喜び故であると思った。
だが、何故かケセはヒトカを懐かしく思う。
「ヒトカ……」
ヒトカが自分の頭を押さえつけるケセの手に触れながら言った。
「ああ、ご免!」
ケセは慌ててヒトカの頭を解放する。
「これでいい?」
「ヒトカ」
ヒトカは頷く。今度は、唇がそう接近する事もなかった。
髪が揺れる。ヒトカの濃い睫毛が、その整った顔に扇の陰を落とす。
ヒトカの手が伸びて、ケセの髪を撫でた。
短く、癖のない金茶の髪の毛が、白い指と遊ぶ。
ケセはそれを心地良く感じた。そしてなぜかそれは温かく、懐かしかった。覚えていないが父母のぬくもりだろうか?
ヒトカに膝枕されているケセは周囲を見回す。どうやら『精霊の樹海』のようだ。
自分はどうやってシンシンリーを降りてきたのだろう?
ヒトカが、ここまで連れてきてくれたのであろうか? この華奢な精霊が? 自分はいつ、どうして気を失ったのだろう?
考える事が多すぎて、ケセの頭は混乱する。
その時、ケセの髪を弄んでいたヒトカの指が唐突に止まった。
それがあの男の楽しみなのだ。
怠けていると言われるだろう。だが、ルービックはケセが何をしていても難癖をつける。
今日はどんな風に殴られるのだろう? 腹か、背中か、太腿かもしれなかった。とにかく顔だけは殴られない。村長のルービックは外面が良い。ケセが毎朝毎晩殴られている事を知っているのはルービックの家族だけだ。
ケセはルービック夫人からも疎まれている。
村で最も優しい女性と噂される女性からも。
それはルービックがケセを殴る時、彼が性的興奮を覚えているからだ。そしてそのまま、その欲望をケセの身体で発散する。ケセはだから、牛乳が嫌いだ。
起きても起きなくとも殴られるなら、眠ってしまえ、と、ケセは思った。
だが、その時、不意に唇に何かが触れたのである。
ケセは驚いた。
一気に現実に引き戻される。
何故、あんな錯覚を?
僕はもうあんな幼い子供ではない。
二十一になって、一人で暮らしていて、打たれる事も辱められる事もない。
ルービック村長と共に暮らしていたのは自分が七歳から十六歳の時までだ。
あんな昔話。もう、今では忘れようとしているのに。
唇に触れる感触。
もう、何年も知らなかった感触だった。
熱く。
乾いて。
柔らかく。
だけれどもどうだろう?
ケセの記憶の中では嫌悪する感触であったのに、今のこれはとても心地良かった。
無粋な舌がケセの唇を割って入ってくる事はない。
ケセはやがてゆっくりと目を開けた。
その途端、口づけをケセに与えていたモノは慌てて顔を上げようとしケセはそのま、そのモノのの頭を咄嗟に両腕で押さえつけていた。
絡み合う視線。
琥珀と深緑。
さっきまでだるくて起き上がれなかった人間とは思えない早さで反応したケセだったが、自分に口付けを与えていたモノを見ると、すっきりと目が覚めた。
その子はまだ人間的外貌で言うなら十四、十五の華奢な子供だった。
だが、ケセが両腕で押さえている頭に生えている髪の毛の色は不可思議としか言いようがない。
黒に限りなく近い、深緑と焦げ茶色。
人にあらざる色彩の意味をケセは正しく理解していた。
男でも女でもない、シンシンリーの奇蹟。
「あなたは、精霊なんだね」
精霊は笑った。優しい笑顔だった。
「ヒトカ」
精霊は言う。
「ヒトカ?」
ケセは困ってしまう。精霊は、人の言葉を喋らないのだろうか?
精霊の言葉などケセにわかる筈もなく。
「ヒトカ」
その精霊は自分の胸に手を置いて、もう一度言い、ケセの顔を覗き込む。
「それが……あなたの名前?」
その存在は満面の笑みで頷く。精霊、ヒトカと、再び唇が触れ合いそうになる。
だが、すぐにヒトカは頭を上げた。不可思議な色の髪の毛がさらさらと揺れる。
「助けてくれたんだよね? 有難う、……ヒトカ」
ケセは迷った挙句、敬語も尊称も使わずに、ヒトカに喋りかけた。それが『正しい』事のような気がしたのだ。
ヒトカはまた笑った。
その笑みを、木漏れ日が鮮やかに彩る。
ああ、綺麗だ。
ケセは溜息を吐いた。
なんて綺麗な子なのだろう!
精霊とは、何と美しいものなのだろう!!
ヒトカを見ていると、ケセの胸がうずく。
それは初めて精霊をその目にした喜び故であると思った。
だが、何故かケセはヒトカを懐かしく思う。
「ヒトカ……」
ヒトカが自分の頭を押さえつけるケセの手に触れながら言った。
「ああ、ご免!」
ケセは慌ててヒトカの頭を解放する。
「これでいい?」
「ヒトカ」
ヒトカは頷く。今度は、唇がそう接近する事もなかった。
髪が揺れる。ヒトカの濃い睫毛が、その整った顔に扇の陰を落とす。
ヒトカの手が伸びて、ケセの髪を撫でた。
短く、癖のない金茶の髪の毛が、白い指と遊ぶ。
ケセはそれを心地良く感じた。そしてなぜかそれは温かく、懐かしかった。覚えていないが父母のぬくもりだろうか?
ヒトカに膝枕されているケセは周囲を見回す。どうやら『精霊の樹海』のようだ。
自分はどうやってシンシンリーを降りてきたのだろう?
ヒトカが、ここまで連れてきてくれたのであろうか? この華奢な精霊が? 自分はいつ、どうして気を失ったのだろう?
考える事が多すぎて、ケセの頭は混乱する。
その時、ケセの髪を弄んでいたヒトカの指が唐突に止まった。