涙の跡を辿りて
 これ以上、あの御方の愛し児を寒い目に合わせる訳にはいかないわ。
 ヒトカは己の身体を抱き締める。寒い。精霊『であった』頃、寒さはヴェール越しに感じるようなものであったというのに。
 皮膚が痛い。ちりちりする。
 ヒトカがこんなに寒いというのならケセはどんなに寒いのだろう? 氷漬けのケセは?
 それを思っていたら寒いからとじっとしている事は出来なかった。
「ケセ、ヒトカ、必ずケセを助けル。約束」
 そういうと、ヒトカは無意識にケセの唇の辺りに口づけた。
 如何な偶然であろう? それは丁度、ディオヴィカが口づけた箇所であった。
 どくん、と、熱い波動。
 ヒトカは目を見開く。流れ込んでくる力に、どうすれば良いのか解らなくなる。
 一瞬でヒトカの身体の隅々にまで行き渡った『力』。
 その力は、氷漬けのケセを守っていただけあって、ヒトカの身体に再びヴェールのような力の保護膜を作ってくれた。
 寒い。だけれども、寒さが暴力的に身体を切り刻むような痛みを与える事は、もう、無かった。
《有難うございます。永遠を駆ける御方》
 だが、ディオヴィカから応えが返ってくる事は無かった。尤も、返ってきたとして今のヒトカに感じ取れたかどうかは謎であったけれども。
 ヒトカはどんどんと歩き出した。
 魂の色は何色?
 それを知る術は何?
 解らないから、歩く。
 ヒトカには一つだけ、手がかりがあった。
 余り頼りになる手がかりとは思えぬし、期待してはならないとは思うのだけれども。
 だけれども、それしか手がかりのないヒトカには大切な手がかりであった。
 ヒトカは向かう。
 シンシンリーの頂上。
 精霊の女王に仕える巫女の許に。
 讃えよ、謳えよ。巫女の名を知らしめよ。肉の器もつ人の身でありながら、肉体に縛られず、精霊と心通わせ、女王の姿を拝し、言葉を交わす事が許されたる者。
 クーセル村の人間が、五十年に一度、捧げる処女。それが巫女と呼ばれる者の正体。
 それしか、ヒトカには縋りつくものが思いつかなかった。
 巫女の名前は何であったであろう?
 記憶に残っていないのはディオヴィカの所為でもあろう。女王はいつも今の巫女を『あれ』、もしくは『あの女』としか呼ばなかった。
 ヒトカは数十年前の事を思い出そうとする。
 先代の名はスーシャと言った。
 五十年間、巫女を務め上げた処女は、その務めが終わった時、五十年前と全く同じ姿であった。
 気に入りの巫女には、ディオヴィカは肉体の時を止めてやる。ディオヴィカはスーシャが気に入っていた。
 しかし、新しく巫女が来たからには、ディオヴィカはスーシャを自由にしてやらねばならなかった。それがどんなに気が進まぬ事とはいえ。
 ああ、そうだ、と、不意にヒトカは思い出しだ。スーシャの次の巫女はミリエルという女だ。今より四十八年前、代替わりが行われたのであった。その時、スーシャは一つ、古よりの約定にて願い事をすることが許された。
 スーシャが願った事とは何であったろう?
 ヒトカはミリエルに会う事を考えると、胸の中に重りを飲み込んだような気分になった。
 ディオヴィカが『愛さなかった』女。
 ディオヴィカが『愛せなかった』女。
 気に食わないから他の女と変えてくれとは言えなかったのだ。だから女王はミリエルに力を与えた。選択権は女王には無かったのだ。
 それが古からの約定であると聞いた時、幼いヒトカはおかしいと思ったのである。
 たかが人間との約束事など反故にしてしまえば良いではないかと。
 今ならヒトカにも解る。
 強い力を宿したディオヴィカの約束事、反故にしてしまえばそれだけの代償を言霊は求めるであろう。
 しかし、今の巫女。
 銅の色した髪の毛に、緑の瞳の……老女。
 ミリエルはおよそ精霊という種族からは愛すべき特徴を何一つ持ち合わせていない女に見えた。巫女になどなりとうはなかった、と、はっきりと言った。それでも献上されたものを放り出す事は出来ず、ディオヴィカは彼女を巫女とした。
 だが、ディオヴィカはミリエルの時を止めてやる事はしなかった。
 確か、ディオヴィカは、精霊の女王はこう言ったのだ。
 五十年後が楽しみである事よ。
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