涙の跡を辿りて
 ミリエルには何の期待もしていない声。
 ミリエルはその時十六だった。
 十六歳の若さで、誇りを傷つけられ、涙を堪えていた少女。
 スーシャを失った事でディオヴィカは荒れていたのだ。ミリエルの美質にも気付かず。
 それが、今のディオヴィカの巫女だった。
 巫女であるというのに、第一級の祭にしか招待される事も無く、招待されても他の招待客に嘲られ、ミリエルの心はどんなに傷ついているだろう。
 だが、ミリエルも悪いのだ。
 好かれる為の努力を放棄した女。
 庵の中でひっそりと過ごす日々。
 牢屋の中の囚人よりも孤独な日々。
 遠目にしか見た事の無かった老女はどんな女である事だろう?
 協力してくれるというのなら土下座だってしよう。誇りなど知るものか。そんなものでケセが助かるというのなら、ヒトカはなんでもする気だった。足を舐めろといわれてもヒトカは従うだろう。
 ケセの為なら、何でも従う。
 ヒトカは今まで『ディオヴィカの愛し児』として他の精霊達からとてつもなく優遇されてきた事を思った。中にはヒトカなどに上をいかれるのが悔しくてならなかった者もいる事だろう。ヒトカはそれを知っている。気付かぬ程馬鹿ではない。だが、それで傲慢になったつもりも無ければ卑屈になったつもりもない。
 ケセ。
 真実の意味でヒトカを跪かせることが出来るのは、ディオヴィカとケセだけであった。
 だから、何でも出来るのだ。
「はぁっ、はぁっ」
 ヒトカは息苦しいのを必死で我慢して山を登った。精霊としての力が有ったなら、ヒトカは瞬時に移動できたのに。空間転移くらい、わけなかったのに。
 山の頂に住まう巫女。
 ヒトカの希望。
 足の指先が痺れてきた。痛みは感じなかった。ただ、歩きにくかった。
 ヒトカは遂に膝を突いた。
 自分に如何に体力が無いかを思い知らされる。その事についてヒトカは己を責めるが、しかし、この山に手こずるのはヒトカの所為だけでは決してなかった。
 冬山なのである。真夏にも雪を頂くシンシンリーなのである。
 慣れぬ素人が、ろくな装備もなく踏破出来る山ではないのである。
 だが、ヒトカにも意地があった。
 皮の手袋に包まれた手をついたまま、身体を起こす。
 どうしたって巫女に会わなくてはならないんだ!
 その強い意志に、深い緑の瞳が煌めく。
 この声が聞こえるなら、総ての精霊達よ、我が助けとなり給え。我が道行きの険しさを和らげ給え!
 パンパン、と、ヒトカは手についた雪を払った。手袋に水はまだしみこんでいない。だけれども、足と同じく、痺れているようであった。感覚が無いのだ。握ったり開いたりを繰り返すと、痛みが走る。
 ケセ。
 ヒトカは泣きたくなる。
 だが、前を見据えた。
 すぐ泣くのは、ヒトカの悪い癖であった。ヒトカはそれを知っている。もう百歳を越えて、恥ずかしいと思うべきだ。だが、涙はぽろぽろと流れ出てきた。視界が歪む。それを感覚の無い両手で拭う。この手は凍傷になりかけているのではないかと、ヒトカは恐れた。   
 この足も、この手も、なくす事になるのだろうか?
 だが、必死にその恐怖から心を引き離した。
 雪から片足を引き抜き、前方の雪にその足を沈め、もう片方の足をまた引き抜く。
 ミリエルに、会うのだ。
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