涙の跡を辿りて

◆◆◆
 ケセはその時六歳だった。
 三歳の妹の病に、一番言い様のない感情を覚えたのはケセであろう。
 下級貴族の家柄。爵位さえ無い貧乏貴族。
 それがケセの家だった。
 その家には、使用人がたった五人しかいなかった。料理女と従僕が一人ずつ。侍女が三人。
 そして両親を入れて七人が狭い子供部屋で心配そうに妹、サフィアの顔を覗き込んでいるのだった。
 ケセは一人ぼっちだった。
 子供部屋はサフィアの病室と化していたので、ケセは両親の大きなベッドで眠る事を許されていたが、そんな事はちっとも嬉しい事ではなかった。
 だってお父様とお母様は子供部屋でお眠りになるのだもの。
 一人で眠るには両親の部屋は広すぎた。寂しさだけでなく、恐怖心もあった。
 家は貧しく、しかも僅かばかりの金の殆どをサフィアの薬代や治療費に当てるものだから蜜蝋はおろか、臭くて黒い煙の出るちびけた蝋燭でさえ節約を余儀なくされていた。だから、ケセは夜寝る時間になるのが怖かった。
 容赦なく消される蝋燭。
 暗闇に、爪の生えた獣が潜んでいるというのに。
 ケセは悲鳴を上げたりはしない。柳の鞭で酷く打たれた事があるからだ。
『サフィアが苦しんでいるのに男のお前が暗闇を恐れるなど、恥を知れ!』
 両親は、ケセの事が六歳の子供だという事を忘れているようだった。
 抱き締めて、頬擦りして、可愛いと言ってやって、褒めてやって、そんな事が必要な年代の子供である事など忘れているようだった。
 暗闇の魔物とは今の所、停戦状態である。
 ケセが魔物に話をしてやるのだ。その話が面白ければ、魔物はケセの命をとらない。
 もう何日になるか解らないが、魔物はケセに長い鉤爪をのばしてこない。魔物はケセの話に満足しているのだ。
 ケセには物語など幾らでも考え、作る事が出来た。
 ケセは玩具を持っていない。サフィアが生まれるまでは幾らか持っていたが、妹が生まれてからは妹のものになった。サフィアがそれらで遊ぶ事は無かったけれども。
 彼女は生まれた時から病を持っていたのだ。
 貧乏な家でケセに玩具が与えられる事はなく。だからケセは、自分の空想世界で遊んだ。
 だから魔物を喜ばせてやれる。
 話が終わると魔物は闇と同化する。そしてやっとケセは眠ることが出来るのだ。心臓がばくばくと音を立て、興奮しきったケセはすぐには眠れなかったが、だが、夜中には何とか眠る事が出来たのだった。
 サフィアはその間、代わる代わる様子を伺いに来る雇い人達と傍に付きっ切りでいる両親に見守られて眠りを貪る。
 ケセは妹になんら愛情を抱いていなかった。
 死んだら可哀想だ。まだ余り生きていないのだから。
 だけれども、それ以上に思う事はどうしても出来なかった。
 ケセはいつも一人だった。永遠に一人が続くかと思った。
 サフィアが生きている限り、ケセは一人なのだ。
 だからといって死を望むのは罪悪である。
 ケセはそんな罪は犯さなかった。
 でも、一寸だけ、思う時がある。
 もし、お父様が、お髭の生えた頬で頬擦りして下さったなら。
 もし、お母様が、匂い袋の香りを漂わせて抱き締めて下さったなら。
 ああ、もし、もしそうなったなら。
 サフィアの病状は一進一退を繰り返していた。
「十歳までは、生きられぬと覚悟して下さい」
 医者の無慈悲な言葉に、ケセの母は泣き崩れた。父は、そっと妻を抱いた。
 おかしな事に、ケセにはどうしても、両親の名前が思い出せない。
 両親は怪しげな呪い師などにも頼る様になった。家庭はますます困窮した。
 だが、サフィアの枕元には甘いケーキや冷たいお菓子などが用意されていた。
 がりがりに痩せたケセは台所で召使用の黒砂糖のお粥とパンを齧っていたのに。
 何か言っても五月蝿がられるだけ。お腹が空いたと言う事ですら、この家では許されなかった。サフィアは食べられないのだぞと言って叱られるのがオチだ。
 母と共に家に入った老女、侍女頭のシーリスだけが心配してくれた。
 彼女がたとえ白いパンでなくとも何か料理を作ってくれなかったら、ケセは妹より早く黄泉路を辿った事であろう。
 そんな時、初めてシンシンリーの名を聞いた。怪しげな魔術師の言葉に、両親は最後の希望を賭けたのだった。
 無謀な賭けを両親の知己が必死になって止めたのを覚えている。
 だが両親は聞かなかった。
 少し考えれば魔術師の言葉を疑う事も出来たであろう。
 旅費を作る為に売れるものは売り払った。
 ケセはもう何も考えなかった。
 サフィアさえいなければ。
 いなかったなら自分は可愛がってもらえただろうか?
 行儀悪くも階段に座り、黒糖パンを齧りながらケセは思った。
 サフィアが嫌いなわけではない。
 だがケセも、愛されたかったのだ。
 胸元から金の懐中時計を取り出す。、ねじを巻いていたら偶然階段から降りてきた母が取り上げた。初孫が男の子だからと大層可愛がってくれた今は亡き優しい祖父。金の鎖の懐中時計は昔から長男に引き継がれてきたのだと言ってケセに贈ってくれたものだった。
 死ぬと同時に祖父の財産は綺麗に処分された。サフィアの薬代に充てるためにだ。
「何故隠していたの?こんな立派な時計、サフィアのために差し出してやろうとは思わなかったの!? 鬼子!! 冷血漢!!」
「その時計はお祖父様が形見に下さったもので、お母様……!」
 ケセはその時計を取り返そうとした。
 母は思いっきりケセの頬を殴った。
 階段から落ちて行く時にちらりと見えた母の顔は間違いなく笑っていた。
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