涙の跡を辿りて
《谷底に降りるのが命と手足の代償》
 ミリエルの顔に、もう、笑みは無かった。
《私が探して欲しい物を見つける事叶えば、私はお前さんに女王様が何を望んでいらっしゃるのか、教えてやれると思うよ。私には心当たりがある。魂の色、それを知る術。私の答えは正しい筈だ》
 自分に言い聞かせる様に言うミリエルを見て、ヒトカは、ミリエルの言った言葉に興奮する前に、この老女にはどれ程の表情があるというのだろうと思った。
 優しさと慈しみに満ちた顔。怒りと嘆きに歪められた顔。面白がるように嘲る顔。それから、それから。
 今はまるで少女のように俯いて両手の拳を握り締めている。
 だけれども、そんな感傷を吹き飛ばす言葉。
『女王様が何を望んでらっしゃるのか、教えてやれると思うよ』
 ミリエルは答えを知っている!
 それを思えば随分楽な道程だった。人一人の命を救う事を思えば。
《何を探し出せば良いのです?》
 興奮を抑えようと気をつけながら、ヒトカは訊いた。
 その瞬間、ミリエルは微笑んだ。
 その微笑みは今までヒトカが見たミリエルの表情の中では一番美しかった。
 笑いながら、はにかみを隠す表情はまるで十代の少女のよう。
《指輪》
《え?》
 ミリエルの答えに、ヒトカは意外な思いがした。ミリエルに着飾ろうとする気持ちが無いのは明らかだった。化粧もしていなければ、装飾品さえつけていない。服も、清潔ではあるが美しくは無かった。黒い、飾りの何も無いドレス。そんな彼女の探し物が、指輪?
《何て顔しているんだい? 私にだって若い時期はあったんだよ。まさか巫女に選ばれるとは思わなかったからね、婚約していたんだよ。でも、思い出すのが辛いから捨てたのさ》
 ミリエルが遠くを見るように言った。
《とにかくあんたは今日明日としっかり休むんだよ。そして私の指輪を探しておくれ》
《どんな指輪なんです?》
 ヒトカが聞くとミリエルは顔を赤らめた。
《まぁ、私達も若かったからね。金の台にエメラルドの指輪だよ。その台が彼の髪の色で、エメラルドは……解るだろう? 年寄りを苛めて何が楽しいんだい?》
 ヒトカは苛めているという発想は無かったので、慌てて謝った。
《ご免なさい。エメラルドはミリエルの瞳ですよね》
《真顔で言うんじゃないの! 恥ずかしくなるだろう!?》
 耳まで真っ赤にしたミリエルは可愛いと思った。ヒトカは心密かに決める。ディオヴィカに捧げるものが見つかったなら、それが渡せたなら、ミリエルをもっと顧みてやってほしいと懇願しようと。
 悪い人間ではないのだ。ミリエルは。
 ただ、若かった頃は傲慢だったかもしれない。今は少しいじけているかもしれない。
 だけれども、婚約者さえ捨ててシンシンリーに来たのだ。
 ディオヴィカは本来慈悲深い女王である。
 だが、その『優しさ』『慈悲深さ』を指摘されると真っ赤になってしまう。
 ディオヴィカは天邪鬼な女王なのだ。
 そのディオヴィカに意見できるとしたら自分しかいなかった。愛し児である自分しか。
《もうお眠り、ヒトカ。薬が効いてくる頃だ》
 確かに痛みは消えていた。
《有難う、ミリエル》
 ヒトカは微笑む。その笑顔が眩しいとミリエルは思った。彼女の突きつけた代償は決して生半可な事で叶えられるものではないのに。
 想像して欲しい。茨の谷をロープの助け無しに降り、咲き誇る薔薇の中、たった一つの指輪を探す困難を。
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