涙の跡を辿りて
「ヒトカ?」
 ケセが呼ぶと、ヒトカの華奢な身体は、前のめりにケセに向かって倒れこんだ。
「ヒトカ!?」
 ケセはヒトカの膝の上から自分の頭をどける。前かがみになった身体が、正面に回ったケセから見て左手に倒れた。
 ケセは慌ててヒトカの身体を起こす。
 顔についた雪と土を払ってやると、奇妙な既視間がケセの胸に生まれた。
 ヒトカの肌。処女雪の白。その肌理(きめ)細かい肌は、世の女性の嫉妬をかきたてるだろう。
 赤い唇は、紅でも刷いたかのごとく。
 本当に綺麗な精霊だ。
 ケセはヒトカを抱き締めた。
 自分から誰かを抱き締める事など、もう何年もケセにはなかったような気がする。
 だが、ヒトカにはそうしたかった。
 どうしてだろう?
 それが『自然』であるような感じがした。
 温かさが伝わってくる。
 その温もりを、かつて自分は知っていたような気がする。
 いつ?
 自分には七歳以前の記憶が無いのに?
 それとも、そのなくした記憶の中には、思わず涙が零れる様な温もりがあったのか?
 それは最初両親の温もりだと思ったのだが。
 ケセは捨て子だ。捨てるくらいなら温もりを与えたりしなかっただろう。温もりなど。
 アイゼックと過ごした短い時間が唯一、幸せと言えようか。あっという間の、本当に僅かな時間だった。その間にケセは嫌われたくない失望されたくない、認められらたいというその思いで良い成績を収めた。
 その時間があるから今がある。だが、その時間は刹那の夢。
 もう傷つくのは嫌だ。だが、だがしかし。
 それでも、例え万の傷を負ってもいいとケセはヒトカと名乗った性別不明の美しい精霊に語りかけた。
「ヒトカ?」
 その途端、美しい精霊は眼を見開いたかと思うと何も言わず自らの膝の方に、つまりはケセの頭に倒れかかった。
 何故気を失ったのか、ケセには解らなかった。だがこのまま放置しておくわけにはいかない。ヒトカの隣に、自分のリュックサックを見つけたケセはそれを担ぐと、ヒトカの華奢な体を抱き上げた。
 次は、ケセがヒトカを助ける番だった。
 もう一度名前を呼んでみるが返事はなかった。それでも心臓は動き、弱いながらも脈拍があった。
 助けなければ。
 ヒトカは助けてくれたのだ。自分がおびえていてどうする。
 両腕にヒトカを抱いて、ケセは自分の家に戻ってくると、自分の寝室のベッドにヒトカを横たわらせた。
 腕が鉛のように重い。精霊は風のように重みがないものだと考えていたケセであったが、考えを改めなくてはならないようだ。
 とりあえず、寝室の暖炉に火をおこす。
 寒かった。ケセの服はしっとりと濡れており、着替えないと風邪を引きそうだったので、とりあえず着替える。肌着まで換えてすっきりしたところで、ケセは再びヒトカを見やった。ヒトカも肌着を取り換えてやった方がいいだろう。
 だが生娘だったら?
 責任はとれない。
 ヒトカの蒼白な顔の中、唇だけが不自然に赤い。
 ケセはその唇に、そっと己の人差し指を置いた。柔らかな弾力。
 ヒトカとのキスは穢れてはいない。ルービックに強いられたキスとは全く意味が違う。
 何故だか衝動的に口づけしたくなった。
 だが駄目だ、ヒトカは精霊何だぞ?  神聖なるもの。そう思っていても口づけの欲求は止まることを知らず。
 ただ一度、そっと唇を重ねた。
 まるで儀式のような。
 だけれども、何かが頭から離れない。
 精霊の口づけには何か意味があったような気がするのだ。恐らく、気の所為だろうとケセは思う。何故なら精霊の口づけの意味を知っている者が、ただ、精霊を畏怖する人間達の中にいる筈がない。自分が知りようもない知識だ。
 しかし、ケセは段々不安になる。
 何故、ヒトカは目を覚まさないのだろう?
 医者を連れてくる訳にもいかなかった。
 ヒトカは人ではないのだから。
 額に手を載せると、氷のように冷たい。
 ケセは暖炉に向かって呟く。
「もう少しこの部屋を温めて欲しい。お願いだから」
 そうケセが口にしたのは気休めだった。
 だが、暖炉に踊る火の精霊は、ぱちりと片目を瞑って応える。ケセに見えない事は承知の上で。
< 4 / 55 >

この作品をシェア

pagetop