涙の跡を辿りて
願いは受理された。
ケティの恋は終わってはいなかったのだ。
この願いをかなえるためだけに五十年間という長い月日を巫女として過ごしたのだ。幾夜も涙に暮れながら。
ヒトカの頬を熱い涙が伝った。
緑の拘束が微かに震え、緩む。
お互い、そこまで愛し合っているのなら結ばれれば良かったのだ、そう考えるのはヒトカが精霊だからであろうか?
ディオヴィカは怒ったりしないであろう。祝福の言葉を賜る事になったかもしれない。
だが人間とは恐ろしきもの。人々はもしそうなったなら石を持って二人を追っただろう。
悲しい話。
だけれども、もう少しで自分も薔薇の苗床になるところだったと思うと、恐怖が走る。
「ヒトカ、どうしたんだい?」
ケセが白い歯を見せながら笑っている。その笑顔は確かにケセのものであり、また全く違うものでもあった。
これは幻。
目を覚まさなくては。
ヒトカは真珠を握る。
真珠の記憶。ディオヴィカはこの谷に立ち入るもの全てに力を振るう。ケティの恋人のように、崖から転落死することないよう、緑の蔦を絡めて、夢を見せる。
もう血は沢山!
ディオヴィカは愛する薔薇が血に穢れる事を嫌った。
ケセの表情は自分の記憶上にあるものの再現にしか過ぎない。そう解ったら、笑い出したくなった。
もう少しで貴女の術中に陥るところでしたよ、ディオヴィカ様。
「駄目だヨ、ケセ」
夢に囚われたまま、いる訳には行かない。
「さヨウなら」
ヒトカはそう言って泣きたいのを堪えると、ケセの胸を押し、離れた。
本当は夢に溺れていたかったけれども。
その瞬間、白い光の柱が天から差すのを、崖の上からミリエルは見た。
ヒトカを、暖かい力が包む。
それはケティの力だった。
ヒトカを包む光の柱は、ヒトカを緑の呪縛から完全に自由にした。身体からぽろぽろと棘が抜け落ち、その棘が刺さっていたところが癒される。
ケティの想いの強さが、その奇蹟を可能にした。
ヒトカの身体はゆっくりと下に降りていった。光が段々消えて行く。
そしてヒトカの足が大地に触れた瞬間、光は四散した。
「有難う、ケティ」
ケティはもう何も答えない。
答えられないのだと、ヒトカには解った。
ケティがこの真珠に零した、涙と思いの力全てを、先ほどの奇蹟で使い果たしたのだ。
ケティはこの谷の何処かで生きている。真紅の薔薇として咲き誇っている事だろう。
早速助けられた。
ヒトカは不思議な思いがする。
真珠の力。巫女の力。
ただ人にしか過ぎないと思っていた巫女がここまで力を秘めたる者だったなんて。
真珠は微かに温かい。
だが、その事は後で考えよう。今はミリエルの指輪を見つけなくては。
指輪。小さな指輪。
ヒトカは薔薇の花を傷つけないように慎重に花と花の間を掻き分けた。
土を弄っている所為ですぐに爪は真っ黒になる。だが、そんな事に頓着していられなかった。谷は広かった。崖の上から見た時には想像もつかなかった程。
茨の谷には朝も昼も夜もなかった。
空は太陽も月も星も抱いてはいなかった。
時間の概念が全くなく、それ故にヒトカはいつから指輪を探しているのか見当もつかなくなってきた。
まだ数時間しか経っていないのか。それとももう幾日も探し続けているのか。
せめて腹でも空けば、それを目安に時間を計れたかもしれない。だが、それすらないのだ。
ケセ。
心の中で名前を呼ぶ。
氷の中で、夢を見る事が出来るのか、と、ふとヒトカは思った。
もし叶うなら自分の夢を見ていて欲しい。
棘が指に突き刺さる。指中が血塗れだった。だけれども、溢れて零れる程ではない。
金の指輪って本当にあるのかな?
ヒトカが疑問に思った頃、丁度ヒトカがこの谷に入り一月が過ぎていた。
それだけの期間をかけて、漸く見つけたのは鉛の指輪であった。
何か彫ってあるが、ヒトカに人の世の文字は読めない。
鉛の台座に安っぽい硝子玉が飾られてあった。所々に着色料の名残があるものの、曇った安っぽい硝子でしかない。しかも傷だらけ。
ヒトカはがっかりした。その指輪は大切に守られていたものだから、もしかしたらミリエルの指輪かもしれないと期待したのに。
沢山の茨に守られて咲いている純白の薔薇の、綻びかけた蕾の中から見つけ出したのだ。
この谷の薔薇は、ヒトカが見る限りみな満開だった。蕾も、散りかけた薔薇も無かった。
だからその蕾を見つけた時、ひどく驚いたのである。
蕾。それは可能性。
ディオヴィカの怒りを買うのを覚悟の上でヒトカは蕾の花弁をむしった。
そして見つけたのがその指輪だったのだ。
ケティの恋は終わってはいなかったのだ。
この願いをかなえるためだけに五十年間という長い月日を巫女として過ごしたのだ。幾夜も涙に暮れながら。
ヒトカの頬を熱い涙が伝った。
緑の拘束が微かに震え、緩む。
お互い、そこまで愛し合っているのなら結ばれれば良かったのだ、そう考えるのはヒトカが精霊だからであろうか?
ディオヴィカは怒ったりしないであろう。祝福の言葉を賜る事になったかもしれない。
だが人間とは恐ろしきもの。人々はもしそうなったなら石を持って二人を追っただろう。
悲しい話。
だけれども、もう少しで自分も薔薇の苗床になるところだったと思うと、恐怖が走る。
「ヒトカ、どうしたんだい?」
ケセが白い歯を見せながら笑っている。その笑顔は確かにケセのものであり、また全く違うものでもあった。
これは幻。
目を覚まさなくては。
ヒトカは真珠を握る。
真珠の記憶。ディオヴィカはこの谷に立ち入るもの全てに力を振るう。ケティの恋人のように、崖から転落死することないよう、緑の蔦を絡めて、夢を見せる。
もう血は沢山!
ディオヴィカは愛する薔薇が血に穢れる事を嫌った。
ケセの表情は自分の記憶上にあるものの再現にしか過ぎない。そう解ったら、笑い出したくなった。
もう少しで貴女の術中に陥るところでしたよ、ディオヴィカ様。
「駄目だヨ、ケセ」
夢に囚われたまま、いる訳には行かない。
「さヨウなら」
ヒトカはそう言って泣きたいのを堪えると、ケセの胸を押し、離れた。
本当は夢に溺れていたかったけれども。
その瞬間、白い光の柱が天から差すのを、崖の上からミリエルは見た。
ヒトカを、暖かい力が包む。
それはケティの力だった。
ヒトカを包む光の柱は、ヒトカを緑の呪縛から完全に自由にした。身体からぽろぽろと棘が抜け落ち、その棘が刺さっていたところが癒される。
ケティの想いの強さが、その奇蹟を可能にした。
ヒトカの身体はゆっくりと下に降りていった。光が段々消えて行く。
そしてヒトカの足が大地に触れた瞬間、光は四散した。
「有難う、ケティ」
ケティはもう何も答えない。
答えられないのだと、ヒトカには解った。
ケティがこの真珠に零した、涙と思いの力全てを、先ほどの奇蹟で使い果たしたのだ。
ケティはこの谷の何処かで生きている。真紅の薔薇として咲き誇っている事だろう。
早速助けられた。
ヒトカは不思議な思いがする。
真珠の力。巫女の力。
ただ人にしか過ぎないと思っていた巫女がここまで力を秘めたる者だったなんて。
真珠は微かに温かい。
だが、その事は後で考えよう。今はミリエルの指輪を見つけなくては。
指輪。小さな指輪。
ヒトカは薔薇の花を傷つけないように慎重に花と花の間を掻き分けた。
土を弄っている所為ですぐに爪は真っ黒になる。だが、そんな事に頓着していられなかった。谷は広かった。崖の上から見た時には想像もつかなかった程。
茨の谷には朝も昼も夜もなかった。
空は太陽も月も星も抱いてはいなかった。
時間の概念が全くなく、それ故にヒトカはいつから指輪を探しているのか見当もつかなくなってきた。
まだ数時間しか経っていないのか。それとももう幾日も探し続けているのか。
せめて腹でも空けば、それを目安に時間を計れたかもしれない。だが、それすらないのだ。
ケセ。
心の中で名前を呼ぶ。
氷の中で、夢を見る事が出来るのか、と、ふとヒトカは思った。
もし叶うなら自分の夢を見ていて欲しい。
棘が指に突き刺さる。指中が血塗れだった。だけれども、溢れて零れる程ではない。
金の指輪って本当にあるのかな?
ヒトカが疑問に思った頃、丁度ヒトカがこの谷に入り一月が過ぎていた。
それだけの期間をかけて、漸く見つけたのは鉛の指輪であった。
何か彫ってあるが、ヒトカに人の世の文字は読めない。
鉛の台座に安っぽい硝子玉が飾られてあった。所々に着色料の名残があるものの、曇った安っぽい硝子でしかない。しかも傷だらけ。
ヒトカはがっかりした。その指輪は大切に守られていたものだから、もしかしたらミリエルの指輪かもしれないと期待したのに。
沢山の茨に守られて咲いている純白の薔薇の、綻びかけた蕾の中から見つけ出したのだ。
この谷の薔薇は、ヒトカが見る限りみな満開だった。蕾も、散りかけた薔薇も無かった。
だからその蕾を見つけた時、ひどく驚いたのである。
蕾。それは可能性。
ディオヴィカの怒りを買うのを覚悟の上でヒトカは蕾の花弁をむしった。
そして見つけたのがその指輪だったのだ。