涙の跡を辿りて
◆◆◆
 ケセは一生懸命に歩いていた。幼い子供に、ランタンは大きく、重たく、熱かった。
 だが一言でも弱音を吐いたら父はケセを愛してくれないのに違いない。
 所々に水溜りがあった。
 だがそれよりも何よりも。
 ここは人が穿った穴に過ぎない筈なのに、緑が一面を覆っていた。日の光の差さない場所で咲く花の不思議。色とりどりの花が咲いていた。ケセにとっては名も知らぬ花だった。
 ケセはそれを踏みつけないようにと慎重に歩く。
 両親は後ろから付いてきていたが、ケセは不安で堪らず、すぐに後ろを振り返った。ちゃんと両親が付いて来てくれるのか、捨てられはしないか、心配だったのである。
 怖かった。
 ケセは怖かったのだ。
 何故こんな所を行かなくてはならないの?
 疑問を、しかし、ケセは飲み込んだ。
 男は、貴族は、泣き言を言ってはいけないのだと、ケセは躾けられたから。
 ケセにとって貴族である事柄の何が大事なのか解らなかったけれども。
 ケセにとって貴族である事柄は重荷でしかなかった。
 いつもお腹を空かせた、愛情不足の飢えた子供。それがケセであった。誰からも顧みられず、実の両親からもまるで居ないかの如く扱われた子。
 それでも、貴族であるが故に、「お腹が空いた」「疲れた」「だるい」「苦しい」「暑い」「寒い」「怖い」と言ってはならなかった。そして町家の子と遊ぶことも厳しく戒められていた。
 友達も居ないケセは、窓の外に広がる世界を模写する。木炭でかかれたその絵は、ケセの才能を示すものであったけれども、誰にも知られてはならない事だった。
 お父様はお許しになられない。
 お母様は悲しまれる。
 僅か六歳の子供が、そうやって自我を殺していったのだ。
「ケセ、違う。そこは右だ」
 父からの声に、ケセははっと身を強張らせた。真っ直ぐに進みかけていたケセは慌てて方向転換する。その時、白い花を踏んだ。
 ご免なさい!
 心の中で、ケセは謝る。何故なら、自分が踏みつけたその花の悲鳴が聞こえたような気がしたからだ。
 このような事を両親に伝えると、酷く叱られるが(三日は椅子に座って食事の席に着けない程、柳の枝の鞭で尻に『お仕置き』されたのである)花にも草にも命があって魂があるとケセは信じていた。そんな難しい理屈で考えていたのではなかったが。
 だが、ケセは敏感に感じ取っていた。
 八百万のものに命は宿ると。
「ケセ、早く歩け! こうしている間にもサフィアが苦しんでいるというのに、お前はサフィアの兄だろう? サフィアに対して恥ずかしいと思わないのか!?」
 父が怒鳴ったので、ケセは足を速めた。花を踏まないように気をつけようとしていたのだが、すぐにそれは不可能となる。
 父が命じる方向に進めば進むほど、緑は絡み合っていたのであった。花も勢いを増し、誇らしげに咲いている。
 それは六歳の子供の感性でも不思議なものであった。
 ご免ね、ご免ね。
 ケセは踏みつける緑達、花達に謝る。
 ──良いのよ。だって貴方は可愛いのですもの。きっと我等が女王もお気に召してよ。でも貴方の後ろの方々は駄目ね──
 ケセはびくっとした。
 さっきの声は? 人間の声ではない。耳にではなく頭に語りかけてきた。
「お父様、お母様、今、僕に何か話しかけられましたか?」
 念の為聞いてみると激しい叱責が飛んできた。
「用もないのにお前になど話しかけるか! お前は私の言うとおりに歩いていればそれで良いんだ!」
「急いでいるのよ、ケセ。早く歩いて頂戴」
 父と母の言葉に、ケセは遂に勇気を出して聞いてみる事にした。
「ここには、何があるのですか?」
 ケセの問いに、父は息子の尻を長靴で蹴る事で答えた。
「お前が知って何になる? 知るべき時がくれば知るだろう。それまでお前はお父様とお母様の言うことだけ聞いていれば良いんだ。それで全てのかたがつくんだ」
 父は、ケセには言わなかった。
 お前が知るときは死ぬ時だと。
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