涙の跡を辿りて
 だってケセ様は、『あのお方の愛し児』なのですもの。
 火の精霊が苦笑する。
 人間ごときの言う事など、本来精霊は気紛れにしかきいてやる事はない。
 だが、ケセは『特別』なのだ。
 子供のように純粋で、人を憎む事が出来ない美しい心の持ち主という、精霊が好む美徳を持ち合わせているだけではなく、『あのお方の愛し児』。
 だが、ケセの興味は既に暖炉にはなかった。
 ケセの関心の総てはすぐにヒトカに戻る。
 ケセはヒトカの口づけで目覚めた。
 ならばヒトカは……?
 考えて、ケセは苦笑した。
 物語のお姫様でもあるまいに。
 物語のお姫様ならさっきの口づけで目覚めている筈だ。
 ケセの寝室のベッドは大きかった。部屋の面積の殆どをこの寝台と、寝台の横のソファが占めている。
 そのソファに座り込み、ケセはヒトカの目覚めを待った。
 不思議と空腹は感じない。
 自然、意識がヒトカに集中する。

 既視感。
 昔、この子の目覚めを待った事があるような気がする。何も知らない子の事なのに。

 昔の事を考えるとケセの頭痛は止まらなくなる。幼い頃からだ。
 七歳の頃からしかない曖昧模糊とした記憶。
「こんな子、わたくしの子供じゃないわ!」
 そう叫んだ女の人と。
「取替えっ子が! 呪われるがいい!!」
 そう叫んだ男の人。
 それからまた記憶は途切れて。
 気付いたらルービック家にいた。
 ケセが覚えている昔の記憶は、これだけ。
「ヒトカ……どうしたら目覚める?」
 『昔』を振り払い、ケセは呟いた。
 ケセはヒトカに、認めたくはないが渇望していた温もりをくれた。
 その身体が、今は冷たくて。
 もし、このままヒトカが死んでしまったならば?
 ケセは泣きたい気分だった。
 何故、口づけを交わしたとはいえ、出会って間もない精霊に自分はここまで執着するのだろう?
 ずっと逢ってみたかった精霊。ケセの夢。
 本物の精霊と出会い、そして……。
 本当はそれだけではないのだけれども──それ以上は考えた事がなかったなとケセは苦笑する。
 これは奇蹟だ。
 只人が精霊に触れること叶うなど、奇跡としか言いようがない。
 この精霊の事をもっと知りたい。その声をもう一度聴きたい。そして? そして、そして!?
 
 やがて、ゆっくりとヒトカは目を開けた。
 ケセは膝を抱え、その間に顔を埋めていつの間にか転寝をしていた。
 しかしケセの表情が見えないヒトカは困惑する。
 ケセはどうしたのだろう?
 ヒトカは力ない腕を差し伸べた。寝返りを打ち、寝台の端に移動し、やっとヒトカの手はケセの膝に触れる事が出来た。
 ケセが顔を上げる。
「ヒト、カ……? 目覚め、たの……?」
 ケセは途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「ヒトカ」
 ヒトカはただ一言だけ、唇に乗せる。
 そして極上の笑顔。
 その笑顔に、ケセの頭からややこしい出来事は総てなくなってしまう。
 ケセが手を伸ばすと、ヒトカはその腕を引っ張った。ケセがソファから立ち上がり、寝台に倒れこむ。
 そのケセを、ヒトカは抱き締める。
 ヒトカの身体はまだ冷たかった。
 だが、しがみついている腕の力強さに、ケセは何故か『幸せだ』と思ったのだ。
 そして、ケセはヒトカからは緑の匂いがすると思った。森の匂いだ。
 そう思った瞬間、ケセはヒトカを抱き締め返していた。
 だがその肉体は凍えきっている。やはり着替えさせえるしかないようだった。
 ケセはヒトカから離れてクローゼットを開けた。なかなか適当な服が見つからない。
「これに着替えて」
 そう言っても首をかしげる精霊の服を仕方なくケセは脱がせていく。ヒトカは一切抵抗しない。そして乾いたバスローブに着替えさせようとして、ケセは息をのむ。
 ヒトカは女性ではなかった。男性でももなかった。
 女性だったらビンタのニ発や三発覚悟していた
 だが、ヒトカは違った。
 男でも女でもない肉体。。
 腕の中の幼い精霊を稚い、守ってやらなくてはならないもののように感じられる。
 身体が冷えているのなら、この体温を分けてやろう。そして、他に出来る事は……?
「ヒトカ、何か食べるか? 喉は渇いていないか? 精霊はどんなものを食べるんだ?」
「ヒトカ……」 
 食事は必要ないのだと伝えたい。ケセが御飯を用意してくれても食べられないのだ。
 心配してくれて有難うと伝えたい。自分の身を案じてくれて有難うと伝えたい。
 だが、ヒトカは己の名前しか言えないのだ。
 だからせめて笑顔を作る。ケセに感謝を伝えたくて。
 ケセは全く無謀無防備なヒトカに心配になる。

 その日から、二人の生活が始まった。
< 5 / 55 >

この作品をシェア

pagetop