涙の跡を辿りて
 ケセは困った顔をする。
「子というものは親を大切にするものです」
 大人びた口調で断言するケセに、ディオヴィカは大笑いした。
 アハハ……アハハハ。
 腹を抱えてディオヴィカはベッドに身を投げ出し、その上をごろごろと転げまわった。
 ケセは不愉快になった。何故、当たり前の事を言っただけでこんなに笑われなくてはならない?
「おうおう、そんなに怖い目で妾を見るでない。妾の前では常に笑顔でいよ。しかし、そなた、大人びた子供じゃのう。本当に六歳か? 身体つきは幼いのにのう。そなたの瞳には幾星霜も生きてきたかの如く深みがある。まるで弟のようなものと話しておる気分じゃ。悪かった。妾が悪かった。そなたの考えを笑ったりした妾に非がある。どうじゃ、妾は素直に謝ったぞ。そなたは妾を許すべきじゃ」
 凄まじい勢いで喋られ、ケセは困る。許すと、ただ一言言えば済むのだけれども。
 ケセはもう許していた。この方はシンシンリーの女王なのだ。そして、本気で謝っている。女王がただの子供にしか過ぎないケセに。
 許す、と、いう言葉を吐き出そうとした瞬間、ディオヴィカが言った。
「うん、なんじゃ? そなた、妾を許さぬ気か? それなら妾は代償を払おう。何でも好きな事を言うてみよ。叶えてくれる。ただし、妾がそなたの願い、果たした時には妾を許さねばならぬぞ? 解ったかえ?」
 今度は比較的簡単な言葉を使って説明されていたのでケセにも解った。こくりと、ケセは頷く。
「さぁ、そなた、妾に何を求める?」
 再び、ケセは困った。今まで何か積極的に求めた事があったであろうか? 否、少なくともサフィアが生まれてからはない。
 求める事を、ケセは許されていなかったのだ。本当は、愛を求め、甘えたかった。
 僕のして欲しい事。
「ディオヴィカ様」
 ケセは意を決して言葉にする。拒絶されないか、馬鹿にされないか、侮蔑されないか、心配で堪らなかったけれども。
「……抱っこして下さい」
 その言葉を聞いた瞬間、精霊の女王の瞳が濡れた。新緑の緑が、まるで朝露に輝くが如く、その姿は美しかった。
「そなた、飢えておったのじゃの。そんなに飢えておったのじゃの」
 ディオヴィカは立ち上がると、ベッドの脇に立ち尽くしていた子供を抱き締めた。
 強い力。温もり。匂い。感触。
 ケセの頬に涙がつたう。
 ただ、これだけの事。
 そして、これ程までの事。
 ディオヴィカの抱擁はシンシンリーの抱擁。
 ケセは、シンシンリーに愛される事になる。
「可哀想にのう。これからは妾がそなたを抱き締めよう。そなたの親にはなれぬが」
 ぎゅっと、ディオヴィカは腕に力を込めた。
「妾はそなたの親以上にそなたを愛そう。そしてこのシンシンリーがそなたを愛するであろう。愛しい子」
 『愛しい子』
 ケセは物心付いて初めて、『愛しい子』と呼ばれた。それは歓喜を催させる力強い言葉であった。
 ケセが愛される?
 ふっと、ディオヴィカが唇を重ねてきた。
 甘い吐息を残して、唇はすぐに離れる。
「さぁ、妾は誠の心を持って、そなたの望みを叶えたぞ。次はそなたの番じゃ。妾を許してくれような?」
「許します。ディオヴィカ様」
「よう言った。妾も随分と色々な子供を愛し児としてきたが、出会ってすぐに妾が許しを乞うた子供は、そなただけじゃ。いや、妾はもしかすれば、今まで許しを乞うた事など無いかも知れぬ」
 くつくつとディオヴィカは笑う。その様は愛らしい少女であるのに、彼女はこの山、両親が何かの期待をかけて登ろうとしたシンシンリーの女王様だという。
 ケセに疑う余地は無かった。感じるのだ。同じように幼い姿をしていても、自分とディオヴィカは絶対的に違う存在だと。
 この時、ケセは言葉に出来ない不思議な気持ちを味わった。
 大きくなった今のケセなら解るだろう。
 ディオヴィカは絶対的に孤独なのだ。
 神々の住まう世界から離れ、ただ一人地上にて精霊の女王として君臨するディオヴィカ。だが、ディオヴィカは精霊になった訳ではない。ただ一人、この世界において神なのだ。
 それを孤独と言わずして、何と言おう?
 だから、ディオヴィカにはケセの孤独が理解出来た。
「そなた、そろそろ腹に何か入れるべきじゃ。運ばせる故、しばし待て」
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