不器用上司のアメとムチ
お腹の子の父親は、もちろん婚約者さんだそうだ。
あの事故の日、森永さんが病院から自分のアパートに帰るとドアの前で彼が待っていて……
『両親に勧められた見合いの話、蹴ったんだ……やっぱり千紗以外と結婚するなんて考えられない。
煎餅屋が潰れたって誰も死ぬわけじゃないけど、俺は千紗と生きていけないのなら死んだのと同じだ。たとえ勘当されたとしても、もう無理して子どもを望むのはやめて……純粋に、二人で愛し合いたいんだ』
『勝手だよ……そんな』
『ごめん、でも――――』
『私だって!あなたじゃなきゃダメだって思って……だから……』
『千紗……ごめんな。……ありがとう』
森永さんは、彼の発言がショックで交差点に飛び出したことは言わなかったそうだ。
老舗の煎餅屋の跡継ぎという立場を捨てようとしてまで、自分を選んでくれた彼に苦しい思いはさせたくない。
そして自分は、今生きているんだから、前を向こうって。
「――不思議なものよね、その時に限って排卵がずれていたみたいで……あんなに頑張ってもできなかったのに」
「じゃあ、お煎餅屋さんは……?」
「勘当はされずに済んだ。結婚も許してもらったけど、もしこの子が大きくなって他の職業に就きたいと言ったらそれを尊重するってことを、彼がご両親に約束させてくれた」
「よ、よかった……ほんとに」
「ふふ、姫原さん泣きすぎ!」
だ、だって……嬉しいんだもん……
鞄からハンカチを出して顔を押し付ける私の頭を、隣に座る久我さんの大きな手がぽんぽんと優しく叩く。
あたしって幸せ者だ……優しい人たちに囲まれて、泣いたら慰めてくれる人が居て……
お酒のせいもあるのかもしれないけど、そんなあたたかい気持ちにしみじみ浸ってしまう。