ある人々の恋愛
 朝食をすませ、スーツに着替える。歯を磨き、化粧をする。忘れ物と戸締りを確認し、家を出た。慣れたものだと感心してしまう。幼かった高校生の私はもういなく、そこには社会人として会社勤めをしている女性がいるのだった。
 年月は残酷にも過ぎていき、両親や周囲の人間からは結婚を勧められてしまうくらい、私は歳をとった。
 彼がいなくなってからは、両親は遠慮してそのことを話題にはしなかった。けれども、一年2年と年数が経つと、私が立ち直ったあるいは立ち直ってもいい頃だと思ってか、最近は「自分の将来を考えなさい」と彼のことを忘れるように促すのだ。
 傘に雨粒が当たって跳ね返ると、私はかばんに入れた「あーちゃん」が濡れていないか不安に駆られた。きちんとビニールに包まれている「あーちゃん」を確認し、歩き出す。
梅雨入りした東京は、地面を満遍なく濡らす。傘が舞を踊るように、綺麗にけれども複雑に動き、駅に吸収されていく。やけに混んだ人々がぎゅうぎゅう詰めとなり、電車に押し込まれて目的地に向かう。
 地下の暗いトンネルに、ポツリポツリと明かりがついて、スピードを上げるとそれが一つの光の線のようにつながっていく。先にもっと先にと、光は続いていく。
 私は、彼をなくしてから同時に何かを失った。電車のスピードが上がり、人々は電車に乗って先に先に進んでいく。けれども私は、電車にも乗れず取り残されている。あの日からずっと。
 ガラスにぼんやり映った私は、まるで中身のない卵の殻のように見えた。
 駅に着くと、人々は重い腰を上げて降りていく。改札を出ると、雨は少しやんでいて、モヤモヤとした重い空気が行き場所のない猫のように、ただそこを漂っている。
 会社に着いて、決められた仕事をこなす。昼ごはんを食べ、また仕事を再開する。定時に仕事が終わると、私は解放される。そして帰宅し、夕食を食べて、シャワーを浴び、寝るはずだった。
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