ある人々の恋愛
 幸せだった。生きてきた今までの時間の中で、一番幸福を感じた。私は彼の大きな腕に抱かれていても、同時に恐れを感じていた。こんな幸せな時間がいつまで続くのだろうか。彼はいつか私以外の誰かを選んで、私を捨ててしまうのではないかと。
 シャワーを止め、脱衣所で体にまとわりついた水滴を拭く。鏡に映った、捨てられた子犬のような女は誰だろうかと眺めると、それは自分であった。ストレートの黒い髪の先から、ぽたぽたと雫が流れ、脱衣所の床に小さな水溜りを作る。目からも水が流れ、心に小さな水溜りを作る。
 「大丈夫ですか。怪我しませんでしたか」初めて彼と出会った日は、台風で朝から荒れていた天気であった。電車に乗ろうと必死で足早に向かう人々にぶつかり、傘が飛ばされていった。スーツは傘をさす前から濡れていたが、傘がなくなるとシャワーを浴びるように全身が濡れた。
大きな水溜りに足元をとられ、滑る。声が聞こえ顔をあげると、彼が自分の傘をさし出していた。優しそうな目、声。今までに感じたことのない温かい気持ちが芽生えた。
数日後、駅のホームで彼を見つけ傘を返した。また数日後、彼から声をかけられた。そして告白。
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