ラストコール
その日の天気は雨。しかも土砂降りの。帰り際、横断歩道にさしかかった時目の前を突進してくるトラック。
間違いなく僕に突っ込んできたそれは耳障りなブレーキ音をたて止まろうと必死だった。
横断歩道の信号は青。トラックの運転ミス。だから僕は直ぐそこまで迫ってきていたトラックに気付くのが遅れた。プーッと鳴るクラクション音。直ぐ目の前に照らされたランプ。後ろから聞こえる彼女の悲鳴。僕はこの後、全身を襲うであろう痛みを覚悟して目を瞑った。
『誠ちゃん!』
彼女の声が聞こえるのと同時に思いっきり押される背中。前のめりになりながらも振り向いた時目に映ったもの。泣きながら微笑む彼女と、トラックがぶつかるその瞬間。
直ぐに右手を伸ばしたけれど、その手は彼女を掴むことは出来ず。
伸ばした手はただ空をきるだけだった。
言葉で表せれないようなあまりにも耳障りな音。僕は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
彼女は、"僕"を庇ったんだ。
かたかたと情けないことに彼女を抱く腕が震える。降り注ぐ雨が道路に流れる彼女の血を流していくのが横目に見えた。
『すまない、僕なんかを、庇ったせいで…』
『大丈夫っ…て。それに…』
下を向いていた僕の頬に彼女の右手が当てがわれる。その手はいつも温かい手と違って酷く冷たかった。彼女の手の上に自分の手を重ねる。
『怪我しなくて…良かったぁ』
安堵したように細められた彼女の瞳に今にも泣きそうな僕の顔が写っていた。笑う彼女に「…バカ」と小さく呟いた。
彼女は僕を庇った。その身を犠牲にして。
『…ほんと、バカだな…』
『バカ…で、結講…。ねぇ…誠ちゃん』
さっきより呼吸の荒くなった彼女に優しく「何?」と聞き返せば。
『誠ちゃん。幸せに、なってね。』
そう言って微笑んだ。僕の大好きだった笑顔で。満足そうな顔をしてゆっくり目を閉じた彼女。当たられた手も力を無くし、重力に従って落ちようとしていたのをさっきと同じ場所まで掴み寄せる。そして僕は彼女を力いっぱい抱き寄せた。頬に流れる雫は僕の涙か雨か、わからなかった。
それが彼女の、最後の言葉だった。ザーッと激しさを増す雨音にパトカーや救急車のサイレンの音。僕は救急車に乗せられ病院に運ばれる彼女をただ某然と立ち尽くして見送ることしか出来なかった。
その光景を頭から追い出す事が出来ない。携帯を持つ手が震える。怒りなのか哀しみからなのかは自分でもよく分からない。
携帯からは未だに雨の音がする。
なんで…、この場面なんだ。
神とやらは僕に対してどこまでも無慈悲のようだ。
神から嫌われるなんて…自嘲の笑みを浮かべていたら突然、聞こえていた音が無くなり無音になった。
『あ、れ…?』
彼女の声。無音だった中に響く彼女の声はひどく小さいものだった。
『…もしもし…』
「っ」
『もしもし…?』
何なんだ、これは…。
彼女は死んだんだろう?
声の出ない僕を他所に彼女は喋る。
『…頭がおかしくなったのかな。』
どうなっているんだ。穏やかに笑う彼女の声はいつもの声で。まさか、これは彼女が僕に宛てた言葉…
手が、心臓が、身体の全てが震えた。あり得ないと思うも、彼女の名前を呼んでみる。
『何も感じない。ふわふわしてる。私、死んだのかな。』
返事はない、どうやら聞こえていないようだ。死んだなら、会話もできないだろうに。
『死んだから、聞こえないのかな?誠ちゃん?』
誠ちゃん、つまり僕ではなくあの頃の僕に向けられている。
『聞こえてないのかな?ていうか誰に通じてるのだろう?』
声を出したい。なのにでない。
カラカラに乾いて、口の中の水分が全部無くなったみたい。
『…誠一…?』
心臓が跳ねた。僕の声は彼女には聞こえてないはずなのに。
僕の言葉は彼女には届かない。それは分かってる。でも…
「…僕、だよ」
言わずにはいられない。僕だよ。君が誠一と呼ぶ人であり、誠ちゃんと呼ぶ人でもある。だから何でも言っていいよ。
『…聞こえてるなら、返事しなさいよ。』
少し掠れた彼女の声が愛おしくて堪らない。家族でもなく友人でもなくあの頃の僕でもない。"僕"を選んでくれた事が不謹慎ながら愛おしいと感じる。
『誠一ごめんね。私、約束破っちゃった。』