ジャンクブック
君のこと
■君のこと
夜の交差点は面白い。酔っ払いやら車やらの騒ぎ立てる音に溢れている──かと思えば突如として、静寂が場を支配して、暗闇が重くなることもある。
そうして最後には、信号機の灯りも消えて、玩具みたいな世界だけが残存するのだ。
交差点が好きで、仕事が終わると度々ここにやって来る。横断歩道を渡るでもなく、じっと立って景色を眺める、それだけ。
俺を盲目だと思って「信号が青になりましたよ」と口にしてくれる親切な人もいれば、「気持ち悪いな」と舌打ちしてくる人間もいる。警察にも何回か通報されたが、人畜無害だと判断すると、彼らは俺を変人として放置するようになった。
息を吐いて、手のひらを暖める。古着屋で購入した二千円のジャケットは防寒に役立ってくれなかった。吐いた息が真っ白くなって、暗闇に溶けていく。
たまに、自分が自分を離れていく感覚がある。客観的に自分を判断しているようなときがある。自分の視界に他人の視界が混じる、そんな気持ち悪さがあって、いつになっても馴染めなかった。
離人症と言うらしかった。正確には分からない。インターネットで調べた浅薄な知識だし、なにより、自分の「これ」が勘違いだとか、認識の差だとか、そう言われるのは怖かったのだ。
俺はとっくに三十を過ぎていたし、友人に相談しようとも「厨二房かよ」と一蹴されるのは目に見えている。
どうしたんだい、なにしているんだい。
泣いているの。
君は悲しいの。
煩いな、と怒鳴った。けれどそいつは懲りずに俺の肩に手を置くと、背後から囁きかけてきた。耳に口を近づけて恍惚とした表情で笑いかけてくる。
「どうしてそんな悲しいことを言うの。俺はこんなにも君を愛しているのに」
愛しい、という感情を眺めて、気持ち悪いな、と思う。ただのナルシストじゃないか。俺は背後にいた奴の髪を鷲掴むと、何度も足で蹴り上げた。顔を潰して、体の骨を折って、原型もなくなるほど暴力を震う。消えてくれ、消えてくれ。俺に構わないでくれ。
精神が脆いのは若者特有だなんて。
暴力的なのは若気の至りだなんて。
殺す、なんて単語を吐くのは馬鹿の証拠だなんて。
離人症になんて、なる奴は“ぶってて”気持ち悪いだなんて。
気付けば、そうやって、交差点に立つ君に語りかけている。背後から囁きかけている。そうすると君は怒ったように、俺を殴りつけるんだ。もうやめてくれと泣く彼を、優しく優しく抱きしめて、死んでくれよと愛してやるんだ。
交差点の場面に視界が戻る。酔っ払いが近くの居酒屋から千鳥足で出てくる。君は目を閉じる。近付いてくる車の音が聞こえる。
どうしたんだい、こんなところで。
悲しいのかい。
泣いているのかい。
声を無視して、俺は息を止める。そうして最後には信号機の灯りも消えて、玩具みたいな世界だけが残存するのだ。