くろこげのホットケーキ
4. 湖山さんの目を見ることができなかっ・・・
4.
湖山さんの目を見ることができなかった。当たり前だ。あんな風に湖山さんを抱いた後で。(それはもちろん、本物の湖山さんではなく、湖山さんの面影だったとしても。)
できるだけ会いたくなくて避けられるものなら避けていたけれど、とうとう湖山さんと顔を合わせなければならない日が来た。
いつもなら、昼ご飯の時間になったことも気づかずに仕事をする湖山さんを俺が誘うのに、今日は湖山さんは俺を逃がさないみたいにして昼ごはんに誘い出す。
黙りこくった二人とも、居心地が悪くて遠くまで歩けない。どちらともなく簡単な定食屋の暖簾を潜った。湖山さんが手でよけて翻った暖簾が揺れた時、まるでその暖簾が俺の心臓に触れたみたいに、胸がどきんと大きく鳴った。
こんな日に限ってカウンターじゃない。定食屋の小さなテーブルの向かい側に座る。できるだけ湖山さんを見ないようにして、そっぽを向いて、壁に掛かった定食のメニューを見ていた。
「あの日の夜、ごめんね」
と、湖山さんが謝る。
「いえ、ぜんぜん。会えなくて良かったんです。」
そうだよ、会えなくて、本当に良かった。湖山さんの為にも。テーブルの端のメニュー立てにメニューを戻した湖山さんの手がふと止まった。目を見れなくても、湖山さんの表情が少し硬くなったのが分かる。
そうだよ、会いたくなかった。顔を見たくなかった。湖山さんのことを、好きだからだよ・・・。
正直に言う、何もかも。都合よく解釈してもらえるギリギリの線を探す。
「何て説明したらいいのか、分からなかったんです。会って話したかったけど・・・。会えなかったら、説明しなくて済むっていうか・・・。ごめんなさい。・・・本当は今も説明できない・・・。」
ほら、いつもの通り。
「・・・・そういうことも、あるんだよな。うん。俺も個展の時さ・・・」
都合よく解釈してもらっていいと思って言ったくせに、心が別のことを言おうとする。『違うよ、そうじゃない』、湖山さん、俺が言えなかったのは・・・。
テーブルの上で組んだぎゅっと手を握り締める。殆ど触れそうな湖山さんの手に、この手を重ねてしまわないように。きつく、きつく握り締める。
ふと、目を上げると、湖山さんがぼんやりと俺の手を見つめていた。伏せた目のまつ毛の長さ。静かな湖山さんの視線がまるで俺の手の大きさを測っているみたいに見える。
「それとは、違うんです。俺のは、」
何もかも言ってしまったらいい、そう思ったとき、あまりにも現実的な声で定食屋のおばちゃんが俺を引き戻す。生きるために食べろ、とその声は言う。自然の摂理に適った生き方をせよ、とその声が言う。
もう夏が終わる。最後の蝉が鳴いている。その蝉はまるで自分の化身のようだ。諦めきれない想いの丈が溢れて、過ぎていく季節に置き去りにされる。