りんどう珈琲

 からんからん。
ドアが開いて誰かが入ってくる。

「こんにちは」

 マスターがいつも通りのあいさつをする。「いらっしゃいませ」じゃなくて「こんにちは」。
 お客さんはこの間も来てくれた外国の人だった。アメリカとかヨーロッッパじゃなくて、多分中東とかアジアのほうの人。背が高くて痩せていて、彫りが深い。マスターが37歳だから、きっと30歳くらいかなと思う。わたしは彼をこのあいだ始まった海沿いの道路工事の現場で見た。お母さんが運転する車の助手席で、わたしは彼がお店で会ったことがある人だと気がついた。片方の車線を通行止めにする工事で、彼は道路の前に立ってやってくる車を停めたり通したりする仕事をしていた。


 入口で立ち止まっている彼のちょっとした心の緊張をほぐすように、マスターが少しだけいたずらっぽく言う。

「お好きな席へどうぞ。貸し切りです。今日」

 正確に言うと今日も貸し切り。でもそれを聞いてわたしはやっぱりマスターはやさしいと思う。そんなの誰にでもできるって思うかもしれないけど、そんなことない。さりげないやさしさとおしつけがましさって、ほんとにちょっとだけしか違わない。だけどそのちょっとは実はずいぶん違う。さりげなくなにかをするのはむずかしいことだと思う。おしつけがましい人はいっぱい知ってるけど、さりげない人はそんなに知らないもの。わたしは思う。いずれにせよ、わたしはマスターのそういうところが好きだ。
 彼はにっこり微笑んで窓際のいちばん奥の席に座る。そうなの。そこがりんどう珈琲の特等席なのとわたしは思う。古い木のテーブルと、緑色の古い1人がけのソファが奥にあって、手前には木でできた古い椅子。大きな窓から光が入ってのびのびした気持ちになれるし、雨の日はなんだか世界の端っこに座っているような気分になれる。

「いらっしゃいませ。こんにちは」

 お客さんにお水を運ぶのはわたしの仕事だ。

「こんにちは。珈琲をください」

 彼は流暢な日本語で、メニューを見ずにそういう。


「珈琲お願いします」

 カウンターの中のマスターにそう伝えると、わたしはマスターに背を向けて、カウンターの前に立って外を見る。秋の始まり。オレンジ色の太陽が路地に斜めに入り込んで空気の粒子をつかまえ、しましまの光の筋をつくっている。静かな夕方だ。マスターが珈琲を入れ始めると、背中の方からとってもいい匂いがしてくる。わたしはこの瞬間が好きだ。スピーカーから流れている日曜日の午後みたいな女の人の名前はなんだっけ? どうしても思い出せない。お店が終わったらマスターにもう一度聞いてみようと思う。


< 4 / 21 >

この作品をシェア

pagetop