紫陽花ロマンス


「家はこの近くですか?」


続けざまに彼が尋ねる。


「はい、月見ヶ丘です」

「そうなんだ、僕の職場が月見ヶ丘なんです。家はこの近くなんですけど」


大げさなほど驚いてみせる彼。
何とか会話が途切れないように、気を遣ってくれているんだ。また黙り込んでしまわないように。


「月見ヶ丘ということは、もしかしてT重工ですか?」


手に取ったグラスで顔を隠すように彼を見た。目が合った瞬間、彼の顔色が明るくなる。僅かに微笑んだように見えた。


「いいえ、僕はT重工の協力会社です。岩隈テクノスっていうんですが、知ってます?」

「ああ、知ってますよ。私、T重工に勤めていたから」


言ってしまってから気がついた。
私、言わなくていいこと言ったかも。


「そうなんだ……T重工、どうして辞めたんですか?」


ほら、余計な事言ったから突っ込まれた。


「出産退職です。続けてもよかったけど、上司が嫌いだったから早く辞めたかったし」


これは本当。
出産も理由のひとつだけど、上司のねちねちした性格が大嫌いだったことももうひとつの理由。


彼の返事はない。
どうしたのかと見た彼は、目を丸くしてる。




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