Drive
1-3. 悪酔い
社長と穴瀬を見送って、雑用をノンビリ片付けた。そろそろ帰ろうかと支度をしていると、電話が鳴った。
「はい、アド・フォレストです。」
「石岡?まだ掛かりそう?」
それは、森川社長の声だった。
「あ、社長、いえ、今帰り支度をしていた所です、でもまだ大丈夫ですよ、何かありましたか?」
「いや、そうじゃないんだ。終わりそうならちょうど良かった。飯、食おうよ。今穴瀬と食べているんだけど、珍しく部下を褒めてくれるから気分良くて」
「え?あ・・・はい・・・。」
白いインサートカップの縁に触れた穴瀬の口元を思い出した。満面で笑わない穴瀬のほんの一瞬持ち上がる口角。カップ越しにこちらを見た目の一瞬の優しさ。ぎゅうっと絞られるように石岡の心臓が息を止める。受話器を持つ手がなぜか少し震えていた。
梅雨の夕暮れは雨が降りそうな湿っぽさで、ビジネスバッグに入れた折り畳み傘がいまかと出番を待っている。電話で教わった通りの道を行って言われた店に到着する。一見瀟洒な洋館のような佇まいに見えるがビルの一階だ。紫色のアジサイが垣根を華やかに彩っていた。
木製の重たいドアをあけると薄暗い店内は石畳の路地のような床で、レジの向こうにテーブルが並んでいる。昼間はカフェとして営業しているのかもしれない、開閉式の大きな窓が道路に面している。店内の中ほどの席に森川社長と穴瀬が四角いテーブルの四辺に隣り合うように座っていて、ウェイターに案内されている石岡を見つけた森川が手を挙げた。背を向けた穴瀬がこちらを振り向いてテーブルの上で手を組んだ肩越しに会釈をした。濃いブルーのシャツの肩が少しいかっているのが、シャツの下の肩を想像させる。
そんなことを想像する自分に驚きもしないで石岡は会釈を返しながらその肩と肩越しの穴瀬からひととき目が離せなかった。森川が機嫌良さそうにワインを持ち上げている。
「あの・・・。呼んでいただいて、ありがとうございます。」
気の利いたことはいえないけれどとにかく道すがら考えた御礼をきちんと口にして席に着く。森川と穴瀬が二人並んでワインを飲んでいる姿はとても様になってる、大人の男たちだった。スーツ姿もまだぎこちないだろう自分が席を共にするのが少し恥ずかしく思える。
「余計なことを言う奴じゃないのに、穴瀬がお前のこと褒めてたよ。気が利くなって。」
「いえ、あの・・・」
「褒めたわけじゃない。事実を言っただけ。」
「あ、えぇ・・・。」
「どうしてそういうこと言うの?褒め言葉だろ?」
「森川さん、彼に何か頼んであげたの?」
応接室で褒めてくれたときは確かに褒め言葉に聞こえたけれど、いまこうしているとそれは確かに褒め言葉ではなくて、社会人として当たり前にできることを事実として言われただけのような気がした。ここに石岡がいることを邪険に思っているふうでもないが、穴瀬は今はあの出し惜しみの笑顔すら作ってくれそうになく、淡々とワインを口にしているだけだった。それでなくとも居心地が悪いのに、来なきゃ良かった、と石岡は少し後悔した。
ワインのことは良く分からないけれど、赤ワインは渋いからあまり好きではない、と言うと、森川は石岡にロゼを頼んでくれた。お酒の事は良く分からないけれど確かに赤ワインよりもずっと呑みやすいような気がした。プリッツのオバケ。ブルスケッタ。洒落た前菜、小さく盛られたパスタ・・・。食べた気がしないけれど、すごく贅沢だと思う。石岡の緊張を解すように、森川は若かりし頃から今に至るまでのおかしい話を山ほどしてくれた。自分があと10年も経ったとき、こんな風にかっこいい男になっていられたらいいのに、と思う。自分の失敗談を笑って話せるほど、余裕と自信に満ち溢れた人。こんな風になったら、穴瀬のような男を連れてあるくことが出来るのだろうか。
その穴瀬は、時折森川の話に説明を付け加えたり、石岡に話を振ったりしながら、でも多分、本当はどうでもいいみたいな様子に見える。赤いワインが砂時計のように自分の体の中に満ちていくのを測っているのかもしれない。森川のグラスが空けばワインを満たす。そして自分のグラスに満たしてはまたグラスを口に運ぶ。
青いワイシャツの袖口から伸びる手がワインボトルを持つ度に石岡の目はその手に釘付けになった。手首と指の骨ばった所もほんの少し浮く血管も、どんな風にボトルを持ったら一番美しく見えるのかを計算しつくしたかのように見える。
そして、穴瀬が「森川さん」と呼ぶとき、どうしてその声がそんなにも悩ましく聞こえるのだろうか。自分を魅了するこの男の美酒に潤った喉が、別の誰かを呼ぶ声。石岡は悪酔いしたんではないかと思う。胸が悪い。酷く眠い。
「石岡?大丈夫?」
どうだろう・・・?大丈夫なんだろうか・・・?