山神様にお願い
いきなり呼び捨てだった。それに一度も俺の料理を食べたことがないのに、仕事をオファーされるとは思っても見なかった。確かにそのときにはイタリアンレストランの厨房で働いてはいたけれど、それももちろんメインのシェフなんかではなく、下積みからようやく抜け出せたかってくらいのことなのだ。
背が高くて引き締まっているからとモデルの勧誘にあったことはある。ボクシングの腕を買われてキャバクラの用心棒にどうだって話もきたことがある。だけど、俺の別の一面、料理の腕で仕事が来るとは思ってなかった。
俺は唖然として、まさかでしょ、って笑った。
「俺の料理を食べたことがないのに、そんなこと言っていいんすか?」
大丈夫かこのオッサン、とも思っていた。だけど日々立さんはニコニコとして、簡単に頷いたんだ。
「人となりは知ってる。龍治の料理はジムで評判がいいと聞いている。酒処をオープンさせるのに、丁度いいと思ったんだ」
って。
「・・・俺が今いるのはイタ飯屋で和食じゃないっすよ」
「知ってる。お前がいる店も俺のもちもんだからな」
「――――え!?」
俺はぎょっとした。だってオーナーって・・・日々立なんて名前じゃなかったと思うけど!?え、本気でそう言ってるのか?それともからかわれてる?
だけど唖然として見る俺の前に座る日々立さんは、平然としている。嘘をついてる顔じゃなさそうだった。
・・・マジで。俺、職場のトップとさしで飲んでたのか!?
「何も高級料亭をしようってわけじゃあない。お前の腕で問題ない」
オーナーはニコニコしていた。静かに、その場の雰囲気や料理や酒を楽しんでいるようだった。どこにでもいそうな、競馬の新聞をベンチで読んでそうなオッサンの格好で、日々立さんはその場を楽しんでいるようだった。
・・・金持ち、なんだよな、この人?なんつーか・・・えらく変わってる。
だから俺はちょっと考えて、頷いた。単純に面白そうと思ったからだった。新しい世界へ入ることに対する恐怖や億劫さは俺にはなかった。
帰る家がない。
プロのボクサーにはなれない。
今の店で出世は望めそうもない。
じゃ、これでもいっか、って。