山神様にお願い
「・・・それが今では」
腰をかがめて包丁を慎重に研ぎながら、俺はひとりごちる。
「こんなに真剣にやってるなんて、な」
まだ準備中の札がかかっている、ここは酒処山神。カウンターにテーブル席が二つ、それから座敷が一つの店内と、小部屋が2階に一室あるだけの小さな建物。
ここで働くのは店長のトラと料理担当の俺、それから古参のアルバイターであるツルと、大学生が二人。
つまり、厨房担当は俺だけだってわけ。ここはまさしく俺の城。自分のペースで自分のしたいように出来る、素晴らしい場所。ここが与えられてから、俺は物凄く真面目になった、と自分では思っている。だから今日も誰もいないこの店で、早々と仕込み作業をしているのだった。
季節は冬で、空は暗くて低い雲に覆われていた。
俺はちょっとばかり昔を懐かしみながら、一人で包丁を研ぐ。
使う包丁がよく切れるか切れないか、それだけで作る料理の味が変わってしまうのだ。葱を切るのはこう持つ、大根はこう、魚を切るときはこうで、人を刺すときは──────────いやいや、人は刺さなくていい。多分人肉なんて不味いし。
包丁の刃が切れるかどうかは親指の爪で確かめる。暗い店内で厨房だけに明りをつけて黙々と作業する、この時間が俺は結構好きだった。
なぜか今日は色んなことを思い出すけど・・・。例えば、虎のこととか。
3本目の柳包丁を手に取りながら、俺の頭は過去へと飛ぶ。初めて虎に会ったのは、ヤツがまだ25歳の時だった。