幕末の神様〜桜まといし龍の姫〜
若いとはいえ、冬の寒さは身体に堪える。
さきほど火鉢で温めた手をさすりながら、近藤は、師匠でもあり、この試衛館の道場主である、近藤周斎(しゅうさい)の部屋を訪ねようとしていた。
何やら話があるというのだ。
普段はあまり話などする方ではない周斎からの呼び出しに、身体が浮くような妙な感覚を覚えつつ、近藤は周斎の部屋の前に来た。
「失礼いたします。近藤勇です」
中に入るようにと入室の許可がおり、近藤は正座をして、礼儀正しく襖を開けて中に入り、すぐに閉める。
火鉢で火が焚かれてあるせいか、部屋の中は暖かかった。
近藤の姿を目にとめると、周斎はそれまで手にしていた筆を硯の上に置き、居直る。
そして、書斎の引き出しから、一通の文を近藤に手渡した。
両手でそれを受け取った近藤は、周斎から読むように促され、既に封が切られている文に目を走らせる。
「これは……」
文から目を上げ、周斎を見ると、彼は腕組をしながら頷いた。
「ああ、入門願いだ。だが、ただの入門ではあるまい」
「いかがなさるのですか」
間を置かずに、近藤が周斎に答えを求める。
だが、周斎は難しい表情のまま、何も答えなかった。
周斎が悩んでいるのは無理もなかった。
この文の差出人はある女人だった。
文によると、この女人――みつという女人の両親は数年ほど前に他界し、家を相続させるためにみつは婿をとったのだそうだ。さらに、まだ幼い弟がいて、両親の代わりに世話をしているそうだが、生活が苦しく、このままでは弟に苦労をかけてしまう。そこで、弟を試衛館で面倒を見てくれないかというものだった。
子供を内弟子として引きとるには、それなりに費用もかかる。
だが、困っている家族を放っておけないのも事実であった。
しばらくの沈黙の後、やがて、周斎が重そうな口を開いた。
「君はどう思う」
文を全て読み終えた近藤は、それをたたんで封に戻す。
正直な意見を述べた。
「私は賛成です。しかし、こちらにも受け入れる準備があるので、今すぐ……というわけには」
「なるほどな」
すると、周斎の口元には笑みが浮かんでいた。
「君ならそう言うと思ったよ」
近藤もほっと一息をつく。
「では、私はこれで…」
退室しようと立ち上がると、待て、と周斎の低い声に呼び止められた。
慌てて正座をしなおす。
「そういえば……最近、妙な噂を耳にする」
そう切り出されて、近藤ははっと息をのんだ。
近藤にも心当たりがあったのだ。
ここ数日、この江戸に広まっている噂。
辻斬りが頻発しているのだ。それも、斬られているのは全て不逞浪士。
犯人は未だ目撃されておらず、暗闇に白刃が閃いた瞬間には息の根を止められているという、かなりの腕の者によって行われているものだった。
得体の知れない者に、不逞浪士は恐れをなして、ぱったりと姿を見せなくなった。
町民はこのことをことのほか喜んでいた。
近藤がなんともいえない顔をしていると、周斎は話を切り替えた。
「すまん。まあ何にせよ、不逞浪士がいないことはいいことだ。さあ、とにかく今は、このみつという女人に返事を書かねばな」
この後、文の返事のやりとりを数回繰り返し、みつの弟が来るのは、初夏の頃と決まった。
だが近藤の心には、辻斬り事件のことが心に引っかかって消えなかった。