幕末の神様〜桜まといし龍の姫〜
昼とは対照的に人っ子ひとりおらず、静まりかえっている大通りを闊歩(かっぽ)する譲。
彼女は、月を見上げながらある場所を目指して歩いていた。
―――今宵は綺麗な満月の夜だった。
冴え冴えとした光を放つ月はまるで自分の心のようだ。
ここ数日、譲は休みなく不逞浪士を斬り続けている。
昼間に町民に悪さを働かす者に目星をつけ、夜になると制裁を下す。
また、子供である自分を付け狙う者や、辻斬りをしている者たちも大方は片付けた。
そんな奴らを斬っては、懐から金をさぐり、生きる糧にしていた。
そのおかげで不逞浪士の数は、譲が町に来た当初のときよりも劇的に減った。
―――だが。
どうしても心が晴れ晴れとしなかった。正しいことをしているはずなのに。悪い人間を減らして、町のために役にたっているはずなのに。
どれだけ考えても、その問いの答えは誰も教えてくれなかった。
ふっと、閉じ込めていたはずの孤独の感情が胸に芽生える。
よくわからない思いを抱え、複雑な表情でしばらく、月の光の眩しさに目を細める。
途端、背後に人の気配がして、はっとして身構えた。
ぼうっとしていたせいか、後をつかれているのに気がつかなかったのだ。
譲は自分の手元を見た。
酒瓶を持っているせいで、刀が握れなかった。
このお酒はどうしても置いていけない。これから、あることろに向かわねばならないのだ。
譲はくるりと身体の向きを反転させる。
「私に、何の用ですか」
そう強く言い放つと、物陰からある男が姿を現す。
「いやいや、たいした感知能力だ」
聞き覚えのある明るい調子の声。
やがて、影に隠れていた顔が月明かりに照らされる。
譲はずるっと、後ずさった。
「あなたは……」
この町にくる前の道中であった男だった。
しっかりとした、いかにも男らしい眉毛に大柄な身体。
きちんと結っている髷(まげ)は、旅装束をしていたときには見えなかった部分だった。
譲は、あるところに目を配らせる。
その男の腰には、刀が差してあった。
何をしに来たのだろうかと警戒しながら、男との距離を一定に保つ。
すると男は、譲の視線に気づき、ああと口を開いた。
「まあ、俺はこの町の道場の師範を務めているからな。大丈夫、君を斬ったりはしないよ。ただ…」
男は譲との距離を一気につめる。
「君は、ご両親の使いでここにいるのか?」
「違う……」
声を震わせながら、必死に男から逃げようとするが、足が棒のように動かなかった。
人間をこんな間近で見たのは初めてだ。村の惨劇が頭をよぎり、恐怖しかわかない。
「ではなぜ、ここにいる…?」
「知らない……。あなたには関係ない!!」
声を振り絞って叫び、その場を逃げようとすると、強い力に腕を引っ張られた。
振り返ると、厳しい表情を浮かべた男の顔がそこにあった。
「関係ないだと!? 俺はこの町の町民だ。最近、不可解な辻斬りが起きていると耳にし、夜に見回っていたら、案の定、君が浪士を斬っているところを見つけた。さらに君は、その浪士から金を盗んだだろう!! 俺はこの町で、君みたいな者を野放しにはしておけん!!」
「ほっといてよ!! あなたになにがわかるの!? 浪士を殺して、何が悪いの!? あんな奴らみたいな武士がいるから……私は……!!」
言葉にならない悔しさ、たとえようのない孤独、人間に対する恐怖、世の中の無常さ。
それらの波がすべて、小さな譲に押し寄せてきて、譲は感情の高揚のあまり目尻に涙を浮かべた。
それから、身体を思いっきりねじり、男から逃げた。