幕末の神様〜桜まといし龍の姫〜
息を切らして夜の大通りを走り、裏路地も抜け、譲が辿り着いたのは、大きな桜の木だった。
このような都会にたたずむ桜は、また村で見ていた桜とは雰囲気が違う感じがした。
はらり。
桜の花弁が散る。
この桜は狂い咲きでもしているのだろうか。
こんな寒い日に、こんなに綺麗な花を咲かせて。
儚く散っていく。
まだ白い息を吐いている状態の譲だったが、深呼吸をして呼吸の乱れを整えた。
そしてそっと、桜の幹に手を置き、語りかける。
「ごめんなさい……お母様、お父様、お兄様、村のみんな。本当は村に戻りたいけど、私……戻れないの」
また幕府の追っ手がくるかもしれないから。もう、幕府に村の居場所が知れた以上、村は安全な場所ではなかった。それに、焼けた村に一人残れというのも無理な話だ。
「あ、そうだ」
思い出したように、譲はごそごそと手元を動かし、酒瓶の栓を抜いた。
「本当は、村でしたかったんだけどな……」
龍神家では、古くからの風習で、誰か一族の者が亡くなった際に、一族郎党で桜の木に酒を手向ける慣わしがあった。
そのことを母から何度も教わり、また実際に体験したことのあった譲の身体にも、この慣わしは染み付いていた。
譲が瓶の口を傾けると、透明な酒が桜の根元に注がれる。
その注がれる酒を見ていると、優しかった兄の笑顔、父の優しさ、母の温もり、村人たちの気さくな人柄――これら全てが走馬灯のように駆け巡り、譲は膝を崩した。
「はやすぎるよ……」
あまりに多くのものを失った。かけがえのないものを失った。
譲は桜の木の前で、声を押し殺して泣いた。
誰にも気付かれないように、静かに泣いた。
そのときだった。
―――私たちを葬(おく)りなさい。あなたの音色で―――
突如、脳裏に母の声がこだまし、譲は目をまん丸とさせて桜の木を見上げた。
するとまた、響いてくる。
―――胡弓を弾きなさい―――
譲は、とりつかれたように風呂敷から、母の形見の胡弓を取り出した。
弦を手に取ると、目を閉じ、静かに胡弓の音色を奏で始めた。
穏やかで優しい音色が辺りを満たす。
その胸に、母とのある思い出がよみがえってきた。
母のようにいい音がでないと言い張る譲に、母は譲の頭を優しく撫でながら言った。
『音は嘘をつきません。あなたが頑張れば、音もあなたに応えてくれる。大事なのは、心よ』
お母さん。
私の音色は、届いていますか。
みんなの心に、届いていますか。
そして、私の想いは届いてますか。
そんな風に心で語りかけながら、譲は静かに演奏を終える。
――――ありがとう―――
そう、声が聞こえた。
―――あなたは生きなさい。生きて、幸せになりなさい―――
その言葉を最後に、ぷつりと言葉は途切れた。