幕末の神様〜桜まといし龍の姫〜
譲は目を閉じたまま、桜の幹にもたれかかる。
「お母さん………」
そうひとつ、寝言を呟く。
そのまま深い眠りに落ちようとする――――。
草を踏む音で、譲は即座に飛び起きた。
とっさに身構えるが、すぐに構えを解いた。
目の前にいたのは――。
「どうして……」
うまく撒(ま)いたと思ったのに。
先ほどの男が、苦しそうに呼吸をしながらそこにいた。
なぜだろうか。もう、この男のことは怖いとは思わなかった。
突然のことに呆然としていると、男は譲の前にしゃがみこみ、いきなり頭を下げた。
「さっきは……すまなかったな。君には君の事情があるというのに……。まったく、俺は情けない男だ!男の風上にも置けんな!」
必死に詫びる男に、譲は小さく頭を振った。
「そんなことないです。あの……謝らないでください」
何度かそう言うと、やっと男は顔を上げた。
「ところで、君は行くあてはあるのか」
そう問われて、譲は正直にない、と応える。
途端、男は笑顔になった。
「そうか! ならばうちの道場に住めばいい! いつまでも今のような物騒な生活をしていたら、俺の良心がもたんからな! それに君は強い! 強い子は大歓迎だ!」
譲は弾かれたように顔を上げ、男を見た。
驚きを隠せず、つい口がぱくぱくとなる。
この人は、見ず知らずのこんな私を引き取ってくれるというのだろうか。
なぜ……? なぜ……?
そう考えると、また涙が抑え切れなかった。
ずっと、怖いと思っていた。でも違う。なかには、優しい人もいる。
譲は嬉しかった。
涙が出るほどに嬉しかった。
「私………」
譲は近藤の前で土下座する。
「私………胡弓しか弾けません。剣術しかできません。字もまだよく書けないし、読めません。料理はできるけど……お洗濯はまだできないし……、えっと……あと…」
あまりの慌てっぷりに、男は譲の肩をさすった。
「お……落ち着きたまえ」
「私……、そんな私でもいいんですか?」
やはり断られるのではないかとびくびくしながら、おそるおそる尋ねると、男はにっこりと微笑んだ。
「もちろん。大歓迎だとも!!」
すると、いてもたってもいられなくなった譲は、男にすがりつくように泣いた。
わんわんと、幼子みたいに。嗚咽を漏らしながら、声を上げて泣いた。
譲の涙が収まると、男はすっと譲に手を差し出す。
「俺の名は近藤勇。君の名は?」
夜が明ける。
一筋の朝陽が、譲の顔を照らす。
「龍神譲です」
「そうか、では行こう、譲」
「はい!!」
このとき、譲は村を出て初めて笑った。
その子供らしいきらきらとした笑顔の裏で誓う。
この人に恩返しをするために、そして、今度こそ、何も失わないように強くなろうと。
村から持ってきていた憎しみの剣は捨てたのだった。