幕末の神様〜桜まといし龍の姫〜
「譲」
聞き慣れた声に名前を呼ばれ、譲は物思いから覚める。
目には精気が戻り、譲は深呼吸した。
そっと指のはらで涙を拭い、目の前にいる人を見つめる。
「総司」
至っていつもと変わらない調子の声色で呼びかける。
だが、総司は真っ青だった。
まあ、無理もないだろう。
きっと自分も総司と同じ反応を示しただろうから。
総司の視線は足元に転がっている、息のない絶命している死体に向けられていた。
「……君が……やったんだね」
総司の目を見つめながら、譲は迷うこともなく、こくりと首を縦に振った。
「ええ、士道不覚悟で、私が斬った」
「士道不覚悟…?」
「ええ。殿内は、近藤さんを暗殺しようと企てていた。私はただ、法度にしたがい、隊士を粛清しただけよ……」
だが、総司は浮かない顔をしている。
譲は自分が置かれている雰囲気に我慢できなくなって、刀を鞘に収めると、自嘲の笑いを零した。
「どうして……そんな顔をするの?私は……介錯を務めただけじゃない。そりゃ、切腹ではないけれど……」
譲はかろうじて汚れていない小指の指先で、総司の頬を撫でる。
ビクッと総司が肩を震わせる。
やがて、総司の目と自分の目が合う。
息を止めて互いに見つめあった後…。
「ねえ、私は浪士組の隊士なのよ?
お願いだから……総司……、そんな顔をしないで……。私の決心が鈍るから」
そういって立ち去ろうとすると後方にぐいっと腕を引っ張られ、ふわっとした妙浮遊感のあと、譲は温かい総司の腕に包まれていた。
「そ……総司……!?衣……血で汚れるから!」
振りほどこうとしても、強い力で押し付けられる。
総司の鼓動が鞴(ふいご)のように聞こえる。
「君は……いつだってそうだ。一人で無理して、一人で泣いて……」
消え入りそうな声から総司の想いが痛いほど伝わってくる。
だが駄目だ。これ以上、甘えては駄目なのだ。
譲は葛藤するように目を閉じた。
剣として生きる以上、すがりたくなるようなこういう甘えも、命取りになる。
譲はそっと、総司の手を振りほどいた。
総司が驚いたように目を張る。
「ごめんなさい……総司。私は……きっと、あなたの思いには応えられない」
きりっとした眼差しで、譲は告げる。
「私は……決めたの……」
譲は大きく息を吸う。
「私には刀しかないの。この刀で、私の大事な居場所を護るの……だから」
一陣の風が吹き、譲の隠していた長い髪が解け、風になびく。
「私は、剣になる」
そういって、譲が屯所へ戻っていくのを、総司は声もなく見つめていた。